誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

また古典(教育)不要論の話

webで盛り上がる定番ネタの1つなのでまたかという感じではあるけれど前に盛り上がった、自分でも珍しく記事まで書いたときのものを探してみたらもう5年前だった。

dlit.hatenadiary.com

気になるのは古典教育にポジティブな人たちの一部が先人の残したもの(を読んだり継いだりすること)の重要性を主張する一方、これまでの古典教育に関する議論や文献についてあまり言及されていないように見えるところ。ただこれは今回がどうというよりはこれまでもだいたいそうだった。

さすがに前回はかなり盛り上がったこともあって少し様子が違ったという印象があったのだけれど、思ったよりあのときのことに言及している人も少ないのが意外だった。でもwebのネタとしては5年前はもう大昔か。

このときに関わっていた人たちは当時の記録とか関係書籍などを紹介していて少しほっとしたので今回Twitterでは特に言及していない。このときも少し触れたくらいだったし。

発端がどういう話だったのかということに関しては下記の指摘が重要かなと思う。まあ多くの人は話題になってるから自分が言いたいことを言う良い機会という感じなのかな。話題になるたびに粘り強く丁寧な情報発信をしている一部の人たちには感謝しています。

古典(教育)不要論に限らずweb上の定期的に取り上げられるトピックについては、専門知や詳しい人からの情報提供の重要性を強調するような人ですら次にネタになったときには前回までに得られた情報を参照することは少ない、というのがwebで20年近く細々とやってきての体感なのでそれほど驚きはない(自分だってその辺り手抜きをして恥をかいたこともあるのであまり偉そうなことは言えない)。

ただ所詮web上の刹那的なネタなんだなということが頭にはありつつも、資料とか文献の重要性を説くこととのミスマッチをこの話題についてはいつも感じてしまう。一方専門的に関わっている人たちほどいたずらにネタ的な盛り上がりばかり繰り返してもななどと考えているかもしれないと思い直したりもする。すごくポジティブに捉えれば、そもそも気にしてもらうのが難しいトピックというのもたくさんある中、いつもこれだけ話題になるのはまだありがたい方という見方もあるかな。

「ファン」との付き合い方とか研究とか

幸い?自分自身はあまりそのような悩みはないのだけれど、SNSをはじめとしたwebでの活動、芸能、スポーツなど複数のフィールドで「ファン」の存在のネガティブな側面について考えさせられる出来事が続いているような印象がある。

芸能やスポーツといった業界では古くからある問題だろうが、PVとかインプレッションとか再生数とか触れてもらえる「量」が大きな存在になっている今のwebの世界で、今までは素人(側)だった人たちがどのようにファン(「支持者」とかもっとマイルドな存在まで含めて)と向き合うのかというのは思ったより深刻な問題なのかもしれない。

いや思い起こすとwebでも古くからあった問題のような気はするけど、昔はもっとwebでも一部の人たちの問題だったような気がする。「アルファ○○」という言い方が使われなくなったのはことばのはやり廃りという側面が大きいというのとは別に、今は上で挙げた「量」の面で見ると多くの多種多様な「アルファ○○」がwebにいるのであまり特別感がなくなってしまったというようなことはないだろうか。

これまではあまり調べてなかったけれどファンを取り扱った学術的な研究を読んでみたくなってきた。言語研究でもファンによる特定のサイトや掲示板への投稿の分析とかあるし、きっとほかの研究分野でもいろいろあるだろう。私のゼミの卒論でも過去にアイドルファンのSNSへの投稿とか推し香水レポとかをテーマにしたものがあって、データを見直してみるだけでも面白そうだ。

大学入試における試験監督の「談笑」の件についてちょっとだけ

私自身は国語教育が専門ではないのですが、周辺領域にいる大学教員として気になる話です。

togetter.com

Yahoo!ニュースでも記事を見かけました。

news.yahoo.co.jp

まず一般論として傍線がカッコ(閉じ)などの記号類にかかっているかどうかが入試の解答に影響を与える可能性はあります。しかしやはりテキストと問題がないとその重要性は判断できないので、ここに出ている情報だけで大した修正ではないといった判断をするのは難しいです。ただたとえテキストの読解や問題への解答に大きな影響がなかったとしても、受験生の行動に影響があるなら入試の問題としては些細なことと切って捨てるのは難しいというのが私の感覚です。

ここで「談笑」(のように捉えられてしまう行動)があったのが事実だとしても、その監督員?がこの修正をどのように捉えていたのかもやはりここで出ている情報からは決めがたいように思います。訂正の情報だけ見て大したことないと思った可能性もありますし、試験問題をじっくり自分で解いてみたからこそ重要ではないと判断したという可能性もあります。

仮にこれが実際にそれほど大したことはない修正だったとして、それがなんだか必要以上に大事になってしまう(と感じられる)ことがつらいなという感覚自体は分かります。しかしそのような性質の入試が人生に大きな影響を与える社会の維持に関わっている度合いはほとんどの受験生より大学教員の方が大きいでしょうから、その点を考慮せずに大学教員が受験生や大学入試を安易に馬鹿にするようなことがないと良いなと思います(嫌な予感がしてあまりTwitterを見る気になりません)。

数少ないペーパーテストが人生に大きな影響を与える制度は特にやり直しがききにくい社会の下では好ましくないとは思うのですが、多くの大学では入試の回数を増やすといった余力はまったくなさそうです。(外部委託などの方法は取らずに)今後もしそのような流れになったら、大げさではなく誰かの健康や命がさらに損なわれるということではないでしょうか。