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歯切れが悪いのは仕様です。

古典教育や国語教育に関する雑感

追記(2019/01/22)

 カリキュラムの話について少し補足を書きました。

dlit.hatenadiary.com

はじめに

 いつも読んでいただいている方には今更だが,こういう内容を書く際には少し自分のことについて書いておいた方が良いだろう。

 私は言語学・日本語学が専門の大学教員である。国語教育は専門ではないのでこれから書くことについてはできるだけ批判的に受け止めてほしい。ただ,自身の専門が国語教育の隣接領域の1つだということもあるし,教育研究科という名前の大学院(修士課程)で授業を持っていたりということもあり,いくつかの接点はある。利害関係者といっても良いのかもしれない。

 本来ならもう少し先行研究に言及しながら書いた方が良いのだが,あまりにも時間がないので中途半端な状態で公開する。どちらかというと半分ぐらいは自分のためのメモであって専門的なところの解説も特にしない。また,最初はいろいろな論点について自分の考えを書いていたのだが長くなりすぎたので自分の観測範囲で取り上げられることの少ない話を中心に書く。

参考

 問題点を端的にまとめてくれているのと,関連リンクがあるので下記の記事をおすすめしておく。

dain.cocolog-nifty.com

また,動画の簡潔な書き起こしとして下記の記事は助かった。

xiao-2.hatenablog.com xiao-2.hatenablog.com

論点で気になるところ

 中等・高等教育での古典教育が縮小・廃止されると日本の古典研究の担い手が育たないというロジックを時々見かけるが,では日本の古典研究は非常に重要なので大学の研究・教育では重点的に予算を配分します。どちらかというと専門的にやった方がいいので中等・高等教育からは減らしますと言われたら,どう反論するのだろうか。「古典のことばは現代日本語と似ているので英語などより学習しやすい」というロジックをすでにどこかで使っているとさらに分が悪いかもしれない。ドイツ語学・文学やロシア語学・文学といった領域では学部からその言語の学習を始める学生も多く,それでも研究者は養成しているのである。

 もちろんこれぐらい雑な話だと反論も色々考えられる。日本の古典に関しては非常に重要なので他の言語よりも裾野を広くしておく必要があるとか,「選択と集中」的な案は効果が薄いとか,そもそも大学政策自体信頼できないので任せておけないとか。

 日本の古典や古語に関する知識・技術は様々な資料を読解するのに必要なので,一部のエリートにその知識や技術を集中させるのは危険である(権力的な意味でも継承的な意味でも)というのが1つの論点にならないかと考えてみたのだがどうだろうか。これもあくまで雑なアナロジーだが,さいきん国がやっている統計に関する不正や問題について,もっとごく一部の人にしかそのことが分からなかったらというようなことを考えてみるとよいかもしれない。

教員の負担

 togetterの反応は勉強になるものもいろいろあったのだが,気になるポイントがいくつかあった。ここでは1つだけ取り上げておく。それは,現場の工夫(教材研究や授業のやり方)で対応できるという考え方である。これは,教員の現状を考えるとあまり良くない戦略であると感じる。それこそ環境や人によるだろうが,現場の教員にそういう余裕や基本的な体力があるのだろうか。

 下記で触れる,言語学の知識や研究成果にも触れながら情報発信をしている教員として,あすこま氏やs-locarno氏がいる。

askoma.info

www.s-locarno.com

個人的には他にも専門性の高い国語教員の顔がいくつか思い浮かぶし,全国にはけっこうな数そういう教員がいるかもしれない。しかし,比較的環境が良い教員ですら教材研究や授業準備に時間を割くのはなかなか大変そうである。

 教員の労働問題がようやくかなり広く認知され問題視されるようになってきたような状況で,現場の頑張りや工夫にフォーカスを向けること自体に敏感になった方が良いということはないだろうか。もちろんこの問題には大学に在籍する研究者が良い(副)教材を開発するという他の解決手段も存在する。

言語学・日本語学の不在

 すでにTwitterでも書いたが,こういう議論で言語学や日本語学の専門的な知見を見聞きする頻度が少ないのは残念に思う。なにも専門の研究者を呼ばなくても話として出てくればまだ良いのだが,今回のケースでもそういうことはなかった。

 たとえば「国語」の言語政策については,社会言語学を専門にしていなくても日本語学の概論や日本語史の授業でやらないのだろうか(シラバスによってはやらなくても不思議ではないが)。

 下記のような指摘も具体的になされており気になるところだが,

国語教育という領域に他の研究分野の成果を十分に反映させるには相当の労力が必要そうだというのが私の実感である。もちろんトピックにもよるだろうけど学位論文だったら博士論文レベルでないと無理ではないかな。あるいは影響力のある研究者がプロジェクト組んで長期的にやるか。個別にはいろいろ取り組みもあるみたいだし,学会のシンポジウムとかで取り上げられてることもあるんだけど…

 言語学・日本語学の研究者としては「言語・日本語の話なのに触れられない」というのはこのトピックに限った話ではないので慣れのようなものも諦念のようなものもあるが,なんというかとてももったいない気がする。

古典教育を保持するポジティブな理由

 言語の観点からは,古文に対しては自身の第1言語(母語)と似た言語の学習を通して言語変種の存在と実態を学ぶ,漢文に対しては訓読などの技術に触れることによって第2言語(非母語)と向き合わなければならないという事態とどのように付き合うか学ぶという辺りが重要かと思う。訓読文は日本語の言語変種の1つと言ってもよいぐらい独自の発展を遂げるし(日本語史に触れたことがあれば特定の言語現象が和文あるいは訓読文に偏るという話はどこかで耳にするだろう)。

 ただ,この理由はそれぞれ「必然性」というには少し弱い。たとえば,現代日本語(共通語)の言語変種ということなら地域方言でも良いわけである。もちろん,古典語と地域方言一緒にやった方が面白いだろう話は合拗音とか係り結びとか属格主語とかいろいろあるし(ついでに言うと係り結びや属格主語は日本語だけでなく類型論的に見てもいろいろ面白い話があるが国語で取り扱うのは無理かな),できればそっちの方向に話が行ってほしい。

おわりに

 そもそも問題視されずにさらっと変更されるよりは(いや実際はけっこういろいろ変わってしまったのだけれど),このようにいろいろ話題になるのは良いと思う。

 最後に1つに気になる話を書いておくと,大学教員が「こうすれば面白くできるのに」ということを言うのはもちろん良いケースもあるのだろうけれどちょっとアンフェアかなと思うこともある。大学の授業の内容は基本的にかなり教員の裁量が大きいので,「古典語の完了の助動詞「つ」「ぬ」の使い分けに関する条件とヨーロッパの言語の一部に見られるhave系/be系の完了の助動詞の使い分けに関する条件が一緒だという話があってね」なんて話*1もいろいろできるわけだが,高校までの教育はかなりいろいろな条件・制約の下でやっているので(もちろん,それ自体問題だとか,実際はいろいろできるという話はできるだろう)難しいこともいろいろあるのではないかと思う。

 そろそろ保育園のお迎えの時間だしこの辺りで。気が向いたらまた何か書くかもしれません。

*1:鷲尾龍一 (2002)「上代日本語における助動詞選択の問題ー西欧諸語との比較から見えてくるもの」『日本語文法』2(1): 109-131.