誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

(積極的に)関わると矢面に立つことになって下手したら疲弊しちゃう問題

 以下は科学哲学などが専門の伊勢田哲治氏に対するask.fmでの質問とその回答。

 最近?だと応用哲学(Applied Philosophy)なんて領域もあるので

疑似科学・ニセ科学問題により積極的に関わる哲学者が出てくる可能性なんてのもあるかもしれないけど、むしろこういう専門家の方々には、議論(特に論理や概念)の交通整理とか、科学史に関する研究・情報提供なんかをしてもらっている方が全体としてとても助かるんじゃないかなあ。だってあれ専門家じゃないとものすごく大変ですよ。で、それを非専門家が勉強する糸口なんかも作ってくれると嬉しいなー、ぐらい。
 伊勢田氏の『疑似科学と科学の哲学』なんかまさにそういう仕事としても見れますよね(そんなこと意図してないとしても)。

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

 それで、今回気になったことはタイトルにだいたい書いてあるんですけど、長くてややこしいですね。なんか良い呼び名ないでしょうか。
 どういうことかというと、伊勢田氏はむしろかなり疑似科学・ニセ科学にまつわる問題に対して積極的にコミットしている専門家だと思うんだけど、webだと(webに限らない気はするけど)こういう積極的な人がいると、質問とか批判とかがそういう少数に集中しちゃって、元々貴重な人だったはずなのに結果的に*1疲弊させちゃうってことが結構あるんじゃないかと。それってなんかたぶんみんなが不幸なんだけど上記の問題に関わらず色んなシーンで見てきたような気がする。
 だからどうしようって提案があるわけじゃないんだけど、そういうのも実は「〜コミュニケーション」の問題の1つなんじゃないかな、と。
 ところで僕は伊勢田氏のask.fmをフォローしてるのだけれど、相手の専門性とかにかかわらず本当に誠実な方だと思う。何かの専門家・研究者でそれ意外の領域や非専門家とも積極的に関わろうとする、またそう行動してる人はwebで見る限りでも色んな分野にいるので、そういう人たちが疲れて舞台から降りるんじゃなんくて、それを見て同じようなことをする人がある程度*2増えるようになると良いな、と思うところです。
 ついでに白状しておくと、僕も言語関連の話題で、矢面に立つのが大変そう(あるいは対応する余裕がなさそう)って理由で公開を躊躇した、あるいはまだ公開してない文書ってあります。最近公開してもコメントの対応とか悪いのでお前が言うなとか言われちゃいそうですが。

*1:意図的なのも入ってるかも

*2:なんとなく増えすぎても問題なのかも、とか。

なぜ歯切れが悪い文章を書くのか

 ブログ上部の「歯切れが悪いのは仕様です」という文言は実はかなり評判が良いです(最初に掲げたときはまさかこんなにリアクションがあるとは思いませんでした)。

はじめに

 さて、先日のエントリにこんなブコメが付きました。

人文系が嫌われるのはこのエントリみたいにぐちゃぐちゃして結論も論旨もわかりにくい文章書くからだと思った。
[B! はてな] (自虐としての)人文学は役に立たないとかなんとか - 誰がログ

 確かに、自分で読み返してもそんなにすっきりした文章ではないと思います。
 実は今までも折に触れ「長い」「わかりにくい」「結局何が言いたいの」のような感想はいただいてきました。「長い」はwebではわかりやすい文章にも付くことがあるということを差し引いても、後で自分で読み返してみるとごちゃごちゃした文章になっているなと感じることも多いです。
 ちなみに、今まで一番思い切って歯切れ良く書いた(つもり)のは以下のものですが、

それでも最初の方に色々ごちゃごちゃ書いてありますね。
 今回は、なぜこのブログの文章には歯切れの悪いものが多いのか、またごちゃごちゃと書いておこうと思います。

仕様だから

 終わり。
 …でも良いぐらいなのですが、僕自身歯切れの悪い言い方・書き方をする人間です。学会で僕が質疑応答しているのを見たことがある人はなんとなくわかるでしょう(ちなみに発言内容は遠慮がなかったりします)。
 これはたぶん僕の慎重(臆病)な性格から来ているのだと思います。

失敗した経験から

 言い切った後に間違いに気付く、というのはブログ書いてても研究発表の質疑応答でもよくあります。

には書きませんでしたが、質問・コメントをした(あるいは受けた)後の反省会は僕にとっては必須ですね。
 慎重(臆病)なんじゃないのかよ、と思われるかもしれませんが、変に勇気を出しちゃうこともあるのです。『銀と金』の蔵前会長の言葉を借りると「とんでもない弱虫がかぎりなく死に近い決断だってするもの……!」というところでしょうか(違うか

考えてる・悩んでる・迷ってる、そのままを書きたいから

 あっちの方で最近こんなエントリを書きましたが

論文などの文章では、下手に回りくどく書かず、簡潔に書かなければならないこともあります(それでも僕は脚注なんかに色々書いちゃうタイプですが)。一方ここはブログなので、本当に迷っていること、考えていること、よくわかってないことをその通りに書きたいなというのがまずあります。
 特に専門のことに関しては、はっきりした明快な文章にはしづらいもやもやしていることについて、あるいはもやもやすることも色々あるんだということについて、専門でない方々にも知ってもらうというのは良いのではないかなと考えています。専門家は表では常に堂々と明快であってほしい、ということもあるのかもしれないのですが、色々なもやもやがあるからこそ、はっきり言い切る覚悟もできるんだというか…この辺りは改めてまた書きたいところですね。
 あと、知らないことやわからないことに対して、そのわからなさの度合いや質を表現上書き分けるように誠実でありたいという願望もあります(誠実であることが良いことなのかどうかはまた別)。

表現効果として

 悩ましいことに関してはきちんと歯切れ悪く書いておいた方が、言い切ったとき、明快に書いたときにインパクトあるんではないかと。ただこれは普段から読んでくれている方にしかわからない上に、そもそもそんな文章ほとんど書かないじゃん、という問題はあります。

書き分けは難しい

 自分としては、一般向けに専門のことを解説・周知・宣伝するような文章では比較的簡潔に書きたいという指針はあるのですが、そうやってがっつり推敲に推敲を重ねて書いたエントリはあまりブクマもされずアクセスも集めず、変に書き殴ったような文章が広く読まれたりもするのでなかなか難しいところですね。丁寧な解説と長いと読まないような人に何かを届けることをどうやって両立するのかとか今後も悩み続けるんだろうなあ。

おわりに

 さて、いかがだったでしょうか。今回も良い具合に結局何が言いたかったんだという感じに仕上がったかと思います。 
 今後どのような方針でいくのかということをそんなにはっきりと考えているわけではないのですが、僕自身ブログを書くことで得られたものがたくさんあるので、できるだけ誠実に向き合っていきたいですね。
 とりあえず「歯切れが悪いのは仕様です」はしばらくそのまま掲げられていると思います。

(自虐としての)人文学は役に立たないとかなんとか

 次の記事に関連して以前から思っていたことを少し。

きみらは人文系なの?違うなら人文系について語るのはやめてください、お願いだから。
で、きみらは人文系なの?

 僕は専門は言語学ですので、一般的には「人文系」だと認識されていると思います。まあ末席かもしれませんが、少しは書いてもいいかなと。
 別に人文学を代表して何かを言いたいわけではありませんし、人文学について何かを一般化したいわけでもありません。というか、元々学問分野の分類や「〜な/の人」への一般化について慎重に考えたいと思っています。興味がある方は以下のカテゴリでまとめられているエントリを参照してください。

 ところで三年ぐらい前から「人文学と人文科学と科学」というタイトルのエントリの下書きが眠り続けているんですが、まだしばらく日の目を見ることはなさそうです(ていうか誰か書いて)。

人文学にも色々ある

のブコメにも書いたんですが、一般化に対しては厳しい基準を持っているはずの(人文系の)プロの研究者でも、自分の分野の話をそのまま「人文系は…」という風に拡大しちゃうのってたまに見ます。なので一番上の増田が「人文系(というか国文学)」と書いているところは誠実だなーと思います。
 さて、文学とか他の人文系の分野には言語学に理解があったり、中には自身が言語学に相当明るい人も多いんですが、中には「あいつらただの語学屋で学者じゃねーよ」みたいなひどいことを言う人もいるので、もしかしたら言語学やってる人に人文学を語ってほしくないみたいな人はいるかもしれません。
 僕自身はそこまで学際的な研究をしているわけではないのですが、今授業を担当している学科(学類)には、哲学、史学、考古学・民俗学、言語学の4つの専攻がありますし、研究会などでは文学の研究者と話や議論をすることもあります。
 だから色々語れるぜ、っていうわけではなくて、こうしているだけでも人文学って色々あるんだなあと実感するのですよね。さらにそれぞれの分野に近接領域や学際的な側面があることを考えると、「人文学」ってくくりでは広すぎてなかなか語るのが難しいのではないかと思います。あとたまに「○○学」の話としながら、実質的には「○○学部/学科にいる人」についての話になっているのも見かけますね。これも重なるところはあるんでしょうけれど、ずれるところも色々あるかと。

教員や院生の言うことは鵜呑みにしないのがおすすめ

 さて、学部時代に自分で「人文学は役に立たない」という結論に到達した人にはもうちょっと色々調べてみてと言うしかないのですが、「教員や先輩(院生)」が「人文学は役に立たない」と言ってたから自分もそう言うようになった/考えるようになったという人は注意してほしいと思います。
 なぜかというと、そういうのが本音の場合もあるかとは思うのですが、それは

  1. 自戒:自分たちの学問が役に立つと思い込んで研究してはいけない、役に立つことのみを追いかけないように注意しなくてはいけない
  2. 葛藤:役に立つのかどうかということと常に向き合って(向き合わされて)いるところから出てくる苦しみ

だったりすることもあるので、その辺りのことを知らないまま、あるいは体験しないまま、口まねだけするのはおすすめできないのです。まあ最初はそういう口まねから入って、徐々に成長・勉強していくということもあるかもしれませんが、こういう自虐は半分ぐらいネタで、実際に「何の役に立つの」と言われたら色々答えを持っている教員や院生もいたり。
 個人的には、一般的にも、教員や院生の暴言・自虐ネタみたいなのはあまり真似しない方が良いと考えています。ただ口が悪い人もいると思うのですが、その暴言や自虐ネタの裏には、矜持や覚悟や経験があったりすることもあるのです。院生であれば、でかいこと言いつつも、自分の研究を叩かれまくって成長していくので良いかもしれませんが…
 そもそも、そういう「人文学は役に立たない」みたいなことを言っている教員が辞書の執筆なんかに関わってしっかり世の中の役に立ったりしているかもしれませんよ。この辺りは、「○○学が役に立つか」ということと「私の(好きな)研究は役に立つか」を混ぜて語る人もいるので注意が必要ですね。
 僕自身は(一見すぐには)役に立たない研究が意味が無いなどとは全く思いませんし、役に立つことを第一目標にかかげている研究もかっこいいと思います。ただ、内輪ネタとしてではなく「○○学は役に立たない」と公言しすぎているのを見ると、もしかしたら隣接領域とか全く関連がなかった分野とかで、思わぬ人が役に立ててくれるかもしれない可能性だってあるのに、そこまで決めつけなくても、と思うことはありますね(内輪ネタと公言の区別が付きにくくなっちゃうことがあるのがついったーとかの難点ではありますが)。
 じゃあお前の研究は役に立つんかいと言われたら苦しいところではありますが、これ以上は「役に立つ」の定義というか範囲を決めないとあまり実りのある話にはならなそうです。