誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

dlitさんの文章の半分は言い訳でできています。

 いや、ブログのurlを入れたら成分分析してくれるサイトを見つけました、というような話ではないです。ってかもうこのネタ自体大分古いですよね…
 TAKESANさんとこのこのエントリや、その元になったpoohさんとこのコメント欄(かなり下の方のやりとりです)を読んでて色々考えてみたんですけど、いまいち自分の文体というものがよくわからない、という話です(^^;
 というか、僕はエントリの内容や想定する読者によって表現方法や使用語彙を変えることに全然抵抗が無いのですけど、それでも僕の文章らしさってあるのかなあ。まあ体臭と似たようなもので、自分だけ気付きにくいようなものなのかもしれませんね。
 ただ、一つだけ思い当たったのが、「断定を避ける表現の多さ」なんですよね。僕の文章もどちらかというと長くなりがちな方かなーと思っているのですが、そのほとんどは「多分」「かもしれない」「僕から見ると」「〜と思うんですよね」というような表現によってもたらされているように思います。あと”()”による直接挿入注釈の多さ。
 時々自分の文章を読み返していて、このエクスキューズの多さが読者を辟易、いらいらさせたり、場合によっては論者としての信用を失ったり、読者を逃したりってことも結構あるんじゃないかなあ、と自分でも思います(その逆もあったら嬉しいな)。世の中には「はっきり言ってくれ」という需要も結構あるようなので。
 ただ、こういった表現、文法用語で言うとevidentialityとかepistemic modalityに関わるものに関しては、どうも寛容になれないというか、譲れないのですよね。
 この表現と思考に対する臆病さは研究者としてはそういう質に育って良かったかなあ、と思っているのですが(その割にはうっかりミスや勇み足も多いような…)、「訴える者」には向いてないんじゃないかなあ、というのが最近色々なブログを読んでての僕の自己評価です。
 ということもあって、このブログにはニセ科学への直接の批判なんかはほとんど無かったりするのですよね。なんらかの考察の試みや情報を提供することでできることがあれば、と考えてはいるのですけれど。
 金谷氏批判だって、そういう点では多分僕は適任ではないのですよね(>_<) もっとこう、専門ではない方からの批判や疑問の声なども一定数あれば安心できるんですけど。まあ科学リテラシーでさえかなり危ぶまれている昨今では、言語学リテラシーも身に付けてほしいってのは要求多すぎるような気もしますし、ニセ科学よりは直接的な被害も出ないですからね。こちらはのんびりやることにします。
 ちなみに、専門の研究論文の方の僕の文体は、というと、「ミステリー小説を読んでいるようだ」などと評されたことがあります(笑)僕はそれを聞いた時はなんか嬉しかったのですけれど、よく考えたらあまり誉め言葉ではないような気もしますね。