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歯切れが悪いのは仕様です。

「そんなつもりじゃなかった」問題への補足:善意による免責との関係について

 こないだ書いた以下のエントリについて、重要なので補足しようと思いつつ、遅くなってしまいすいません。

 もともとは僕がこの記事で具体例にややこしい例を挙げてしまったのが原因だと思うので申し訳ないのですが、このエントリ自体は「善意による免責」、つまり「良いことをしたつもりだったんだからいいじゃん」とどう付き合うか、ということがメインテーマではありません。
 もちろん「善意による免責」というのもニセ科学問題を含んだ多くのトピックについて重要な問題なので、はてブコメントやエントリのコメントの興味の焦点がそちらの方に流れていったこともかまわないのですが、一応少し気になったので。
 僕が上記エントリで言いたかったことは、

「議論なんてたいそうなことは考えてなかった」ことによって、議論の対象にされたり、批判されたりすることは免れられる、ということが一般的に言えるのでしょうか。僕はやっぱりそんなことは無いだろう、と考えています。
「そんなつもりじゃなかった」ら議論や批判は免れられる(べき)か - 思索の海

ということで、単に「「議論をするつもりじゃなかった」による免責」についてなんですね。これと「善意による免責」がセットになって、あるいはごちゃまぜにされて主張されることも結構あると思います。でも、一応現実がどうかは別にして、問題としてはある程度独立しているはずなんですね。例えば、

  • 議論には応じるけど、善意による免責は主張する:議論には付き合うけど、私が(最初に)やったことは良いことだと思ってやったことなんだから責めないでね。
  • 善意による免責は主張しないけど、議論は回避したい:もとから悪いことだと知ってやってるんだけど、その是非について議論したいわけじゃない。好きでやってるんだからほっといてくれ(単なる中傷とか?)

というような事例も考えられると思いますし。
 というわけで、問題としては一応分けて考えておいた方が良いかな、と。一緒に考えなきゃいけない場面の方が多かったりするかもしれませんが。
 そもそも善意による免責については、poohさんのところでたびたび話題になり、具体的な事例についての考察の過程で色々議論されてきたので、これがメインテーマであれば僕が新しくエントリを起こすことは無かったと思います。
 また、「原則として〜と言える(言えない)」という合意について議論することと、具体的な個々の場面においてどういう行動や対策を選択するかということも、(もちろん強く関連するものではあるのですが)ある程度独立したものとして考えた方が良いかな、と思います。特に具体的な対策というか戦略については、様々な文脈や条件も考慮しないといけないことが多いので、難しく厄介な問題になりがちですし。この辺りのことも皆さんのコメントに断片的に表れてはいたのですが、一応付記しておきます。