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歯切れが悪いのは仕様です。

一般化したくない病

 題名はだいぶ前に読んだ時からずっと気になっていたこちらのエントリに引っ掛けてます(内容には直接言及しませんが)。

 このブログでの最近のテーマと、自分のはてブのお気に入りの皆さんの得意分野の相乗効果もあって、やはり言語に関する記事と、(疑似)科学に関する記事を読む機会が多いのですけれど、どうにもそこで時折目にする(簡単に)一般化された言明が気になっています。
 言語に関して言えば、「(日本の)言語学者/国語学者/生成文法の人って〜だよね」というようなもの、(疑似)科学に関して言えば「疑似科学批判(者)って〜だよね」というような言い方が主ですかね。僕はまだまだどちらも未熟ながら、そのどちらに関しても多くの反例をすぐに思い浮かべることができることが多く、どうにもその一般化に首肯できないことがしばしばあります。
 で、その辺りの精神性なんかについてはヒュームの「帰納って人間の心のくせのようなもの」の議論*1との関連が気になったりしてるのですが、あまり詳しくない上に面白いことも書けそうに無いのでここでは言葉に引き付けてちょっと思うところを書いてみます。
 まず、学問の活動の中でその内容や使用が厳密に定義される命題や表現と違って、自然言語における「Xは〜だ」のような文は基本的に全称命題ではなく、例外が存在したとしてもその真理条件は依然として満たされるような性質のものであることが知られています。このような表現とその形式的な取り扱いについては下記の本のイントロが分かりやすいです。

The Generic Book

The Generic Book

 論文集なんですけれど、確かイントロが一番ページ数多かったような気が。
 ごく簡単に言えば、「カラスは黒い」という文は少々例外的に白いカラスが存在しているような世界でも、依然として真であるということです*2。一方、もし仮に「カラスは黒い」を全称命題として解釈すれば、一羽でも白いカラスが存在すればその文は偽ですね。
 というわけで、一つ二つの例外があるからといって、上で挙げたような「Xって〜だ」という主張が即覆されるわけではないのですが、やはりその文はそのXというカテゴリに対する記述の文なのですよね。その辺りのことはどれぐらい意識されているのかなあ、ということが気になっていまして。
 そういう「(日本の)言語学者/国語学者/生成文法の人って〜だよね」と言うような人たち、あるいは「疑似科学批判者って〜だよね」と言うような人たちについても、直接やりとりをしたこともその後のエントリやコメントの交換をフォローしたこともありますが、その過程で、どうも非常に個別的な事例から一般化された(あるいは、一般化と読めるような)主張をしてしまったらしい、ということが明らかになることが結構あります。
 もちろん、全ての人がほとんど全ての事例について知っていなければ一般化をしてはいけない、というのは非現実的ですし、その書き手がコミットしている状況や問題によって、ある程度関連文脈が絞られても良いと思います。多くの人を惹き付けるためのレトリックとしてあえて荒い一般化を使用する、というのもアリでしょう。それでも、

  1. 自分の一般化がもしかしたら多くの事例について当てはまっていないかもしれない
  2. 一般化するために議論や思考するのではなくて、議論や思考を進めたり深めるために一般化する

ということについても意識していると、その後だいぶ生産的なやりとりに発展させることができるんじゃないかな、と思うのですがいかがでしょうか。まあうるさそうな奴らを煽ってアクセスを稼ぎたいだけ、とかだとこの辺りのことは面倒なだけかもしれませんね。
 もう一つは単純に表現方法の話があって、「Xは〜だ」のXの前に、「ある」「一部の」「いくつかの」「自分が最近見た」などの表現を付け加える、というのはどうでしょうか。というか僕自身がよくやるのですけれど。確かにインパクトには欠けるかもしれませんが、もしその主張によって何らかの問題提起をしたい場合は、これで十分効果的だと思いますけれどね。少なくとも、その後起こりうる「いやいやそれには当てはまらない事例がたくさんあって」→「あれそうなんですか/いや、それも知ってはいるのですけれど」というやりとりの多くを回避できる(かもしれない)、というだけでも楽になると思います。それでも絡んでくる人は絡んでくるのかもしれませんが。
 で、やっとエントリのタイトルの話をして締めにします。
 僕は文法研究の具体的なテクニックを学んでいく際に、「一般化の難しさと怖さ」をこれでもかというほど叩き込まれました。もちろんそれを早くから教えてもらったことは文法研究以外のところでも非常に役に立っていて感謝しているのですが、駆け出しとはいえ一応専門である僕との直接のやりとりで「(日本の)言語学者/国語学者/生成文法の人って〜だよね」と新書や一般書一、二冊の情報だけを元に簡単に言い放つ人や*3、水伝批判(のさらに一部)だけを元に疑似科学批判全体を総括してしまう議論などを見てしまうと、僕なんかの方が「一般化したくない病」にかかった普通ではない人なのではないかとさえ思ってしまうのですよね。この発想自体も「一部の例からの早急な一般化」なのでしょうけれど。
 もちろん、時には一般化することが必要な場合もあるので、どんな場合も及び腰ってのも問題なのかもしれませんが、そういう場合でも一般化ってのは結構チャレンジングな行為だということ、自分がそういう行為をしたということ、そしていつでも再検討と撤回の可能性を意識する、ということは忘れたくないな、と思います。それでも時々やっちゃうんですけどね。まだまだ修行が足りないようです。

*1:このまとめは強引過ぎです。あまり信用しないようにお願いします。

*2:真理条件意味論に関しては形式意味論 - Wikipediaとか。

*3:その元情報の内容もさらに拡大解釈したりして。