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歯切れが悪いのは仕様です。

掛け算の順序と自然言語の対応についてちょっとだけ

はじめに

 これもはてブなどで微妙に書く書く詐欺を働いてきた件なので少しだけ書いておきます。
 この問題については以下のページが参考になります。ページタイトルを見るだけで何が問題にされているのかわかるのが良いですね。

幅広く議論と情報が蓄積されているので全部読むのは大変ですが、気になった方はまずこちらをじっくり読むのが良いのではないかと思います。
 念のため、以下の議論はこの掛け算の順序問題の大勢には影響ないのではないかと今のところは考えています。言語と認識/思考の関係などについて興味のある方などお暇つぶしにどうぞ。このブログでは普通なのですが「ちょっとだけ」とか言ってるわりには結構長いです。あとまだまだ荒い議論なのであくまでも参考程度に。

問題は何か

 僕が気になっているのは、次のような考え方です。

  • (1) 掛け算の順序は対応する自然言語によって異なる(べきである/のが自然)

 「考え方」と書いたのはこれが「主張」と言えるほど強いものなのかいまいちわからないことが多いからです。議論の途中で時々出てくるのですが、あまり突き詰めて議論されているのを見たことがありません。
 さて、(1)だけではよくわからないと思いますので、典型的な具体例を挙げます。僕が使っている電子辞書の「ジーニアス英和大辞典」の名詞"time"の「〜倍」という語義の解説に分かりやすい例が載っていたのでそのまま引用します。

  • (2) 「1個10セントのみかんを5個買った」場合、日本語では10×5と立式するが、英語では5×10と立式する(読み方は five times ten)

 これを踏まえると、(1)の主張は詳しくは次のようになるのでしょうか。

  • (3) 同じ状況について自然言語の表現で掛け算を表す場合、言語の種類によって数の順番に違いが出る。その違いが掛け算の式にも反映される(べきである/のが自然)

いや、この英語の"X times Y"の例を出しているのは結構見かけるんですけど、その例からどのような論理を経て「掛け算に順序がある」という主張につながるのかわからないことが多くて…わりとはっきりと主張している例としてたとえば以下の記事が挙げられますが、

なぜ自然言語上の違いを式にも反映させるべきかという論理そのものは詰められていないように思います。
 一言語研究者としては、式に対応する自然言語上の表現はたくさんありそうだけどどの表現との対応を考えるのが良いのかちゃんと決められるんだろうか、とか、全ての自然言語が(上で見たような)英語式が好ましいか日本式が好ましいかに分けられるなんてことがあるんだろうか、とか色々疑問がわいてきて、前からもやもやしています。
 このエントリでは言語の観点に絞って(1)や(3)のような主張をしたい場合は何について(も)考慮しなければいけないか、という点について書いておきます。

対応する言語表現は決められるのか

 上にも書いたように英語の例としては"X times Y"がよく挙げられますね。"multiply X by Y"を上げる人は見たことがありません(追記:これまで僕が見た掛け算の順序に関する議論の中では)。考え方としてはやはり上で紹介したページで示されているものがわかりやすくて良いと思います。

かけ算の順番は,言語に依存する。日本語では「みかんを4個ずつ6人に」「みかんを6人に4個ずつ」のどちらでも言うことができるが,「4の6倍」と言うのはこれしか言い方がないので「4×6」と書く。日本においてはこれが正しい順番である。
http://nlogn.ath.cx/archives/001450.html

英語では,「six times four」と言うので「6倍の4」の意味で「6×4」と書く
http://nlogn.ath.cx/archives/001450.html

 表現によっては「どちらの順番でも可能」とはっきり言及しているところが良いですね。日本語は比較的(特に項同士の)語順が自由*1なので、動詞文では順番が入れ替え可能になることも多いです*2
 これまで「1皿3個のりんごが5皿」のような表現を出している例も見かけましたが、これは上の例には当てはめるのが難しいですよね(「?1人4個のみかんが6人」)。これは「配る」のか「ある」のかといった状況によって、使える動詞(述語)と対応する構文が異なる場合があるためです。
 そうすると、上の記事で言及されている「4の6倍」「?6倍の4」がどのような状況にも対応する表現として良い候補であるように見えます。しかし、確かに「6倍の4」という表現は奇妙に聞こえますが、たとえば「6つの4」という表現ではどうでしょうか。これもあまり使用されない表現でしょうが、僕の感覚だと「6倍の4」より結構ましに感じます*3。そうするとたとえ(1)や(3)の方針に従ったとしても、日本語話者でも英語式と同じように立式してよいという可能性が出てきますね。
 こう言うと屁理屈というかいちゃもんに聞こえるでしょうか。しかしここでの問題は自然言語に依存した形で掛け算に順序を認めるとして、その際に基準となる言語表現がはっきりと決められるのかということです。他にも「XかけるY」という表現の可能性もありますかね。でも「XのY倍」と「XかけるY」ですらすでに文法的な構造は違います。
 この決定は英語と日本語に限っても難しそうな気がします。以前どこかのブクマコメントにも書きましたが、僕の感覚では、掛け算の式のようなシンプルな形式に豊かな/複雑な自然言語の表現をきちんと対応させるのはかなり厳しいように思えてなりません。各言語で自分の説に都合の良い表現のみをad hocに選んでいくのならともかく。
 あと(1)や(3)の主張は自然言語の表現が前提となって数式があるという感じなんですけど、数式というか立式のし方に合わせる形で自然言語の表現が統一されていった、みたいな可能性は無いんですかね。調べるの大変そうですけど…

ひと休み:英語の"times"について

 この掛け算の表現に使われる英語の"times"ですが、辞書を引くと名詞の"time"のところにも該当項目がありますし、前置詞/動詞として独立したエントリーになっていたりもしてなかなかややこしいです。
 そこでイギリス英語のネイティブに聞いてみたのですが、「1×1」の場合でも"one times one"と言うそうです。もしこの"time"が名詞であれば1の場合には単数形になりそうなので、前置詞の可能性が高いのかな。ただ、専門用語として"times"という形で固定化されているという可能性はありますし、実際インフォーマントからもそういう指摘がありました。動詞として使われる場合もあるのかもしれませんが、英語の文法を考えると、少なくとも"X times Y equals/makes/is ..."の環境では動詞という可能性は低そうです(面倒なので説明は略、ヒントは三人称単数と英語の関係節の特徴)。ただこれも専門用語というか専門の特殊な構文だという可能性はついてまわりますかねえ。

他の言語についても考えてるのかな

 ここから先の話はさらにあまり関係無い話かもしれません。
 最初の方で「全ての自然言語が英語式が好ましいか日本式が好ましいかに分けられるなんてことがあるんだろうか」と書きました。つまり、数式の上では「X×Y」か「Y×X」かという問題で、それが対応する自然言語の特徴によって一意に決まるとするならば、全ての言語とはいわなくても多くの言語が英語式か日本式に分類できることになります。数式と自然言語の対応は英語と日本語(+限られたいくつかの言語)でのみ成り立つという主張も考えられますがその場合にはある程度の根拠を示さないといけないでしょうね。
 さてここで面白い論文を見つけました。

サピア=ウォーフの仮説にも言及されていますし、社会言語学や言語教育研究の観点から見ても興味深い報告が含まれていると思いますが、その辺りは割愛。(特に英語と第一言語による)バイリンガル教育に興味のある方は最初の方だけでも読んでみると良いと思います。
 ここで重要なのはフィリピノ語における掛け算の式の読み方が報告されていることです。数式の読み方は言語研究の論文や辞書には出てくることがあまり無いので貴重ですね。上の論文から引用します。

  • dalawa(2) pinarami(×) ng(〜を) tatlo(3) ay(〜は) anim(6)

フィリピノ語はタガログ語を基盤とするフィリピンの公用語です。ここで"ng"には日本語の助詞「を」が当てられていますが、言語学大辞典のタガログ語の説明を見ると「行為者、目的、または道具の格を表す場合の補語標識」とありますので日本語の「を」より広い範囲をカバーするようですね。"ay"はほぼtopic markerとして良いのかな*4。ちなみに「どう立式するのか」という話は出てきませんので、この例だけではフィリピノ語が英語式なのか日本語式なのかという判断はできません。
 さて、フィリピノ語、タガログ語、またこの論文に出てくる生徒の第一言語であるというセブアノ語はいわゆるVSO言語です。名詞述語文などでも述語が先に来る構文を持ちます。掛け算の順序と自然言語の対応を考える人はこういう言語があることも頭にあるんでしょうかね。また英語はいわゆるSVO、日本語はいわゆるSOVの言語ですが、文や述語の種類によって同一グループ内でも要素の順番に差が出たりあるいは他グループ同士で似通ってきたりということも普通にあります。
 まあ二つの数の順番のみを考えると二通りしか無いわけですから世界に数千あると言われる言語を二つに分類しても別に問題はありませんが、こういう様々なところに現れる言語の多様性/複雑さを捨象して、語順と「ひとつあたりの数」/「いくつ分の数」の順番を強く関係付ける議論はちょっと乱暴に思えちゃいます。
 もちろん心理言語学や神経科学的な手法で語順とそういう認識/思考の関係が実証されたらそれは面白いと思いますが*5、教育の導入と共に他の言語の言い方をそのまま借り入れたという可能性なんかも考えないといけないと思いますし、問題は結構複雑です。

おわりに、あるいは言語と認識/思考の関係

 長々と書いてきましたが、なんでこんなことにいちいち口を挟むかというと、以前から言語(表現)と認識/思考の間にかなり単純化された形で対応を考えることって結構色んなところで見られるんだ、ということが気になっていたからです。
 言語研究者も言語と認識/思考の間には何らかの関係があると考えている人がほとんどだと思いますし、多くの研究もあり現在も進められています。しかし、「どの言語表現がどの認識/思考とどのような形でどれぐらい関係しているのか」ということをきちんと考えるにはものすごく色々な要因について考慮しなければなりません。もちろん思いをはせるのは自由ですよ!ある程度言い切るのはなかなか難しいという話です。
 僕の力不足でそういう研究について紹介することはあまりできていないのであまり偉そうなことは言えないのですが、こういった話題をきっかけにその難しさにも思いをはせてもらうことができたらと。

*1:もちろんどの要素なら語順が入れ替えられるのかという点については多くの研究があります。

*2:言語学、心理言語学では語順が可換な場合でもどちらかが「基本」であるとか、どちらかが認識・処理上より負担がかかる、という研究もあります。注意しなければならないのは、それらの研究はあくまでも「語順(言語要素の順番)」の話であって「ひとつあたりの数」と「いくつ分の数」の順番の話ではないという点です。

*3:こういう感覚は人によって差が出ることも多いですし、僕が言語研究の専門家だから僕の感覚が重視されるべきということもありません。

*4:言語学大辞典では叙述文での述語-項の語順を変えtopic-commentの語順を作る際に付される「転倒標識」とされています。

*5:すでに研究があるのでしたら恥ずかしいところです。