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歯切れが悪いのは仕様です。

【宣伝】『日本語のテンス・アスペクト研究を問い直す 第1巻「する」の世界』が発売されました(編集+論文の執筆を担当)

情報が出てからだいぶ時間が経ってしまいました。刊行が遅れたのは私が編集の業務をしっかりと実行できなかったところに起因するところが大きく,申し訳ありません。

詳細はひつじ書房のページから見ることができますが,目次はこちらにも載せておきます。

  1. 不定(形)としてのル形と「か」選言等位節(田川拓海)
  2. スル・シタ・シテイルの意味をめぐる3 つの問い(有田節子)
  3. 「する」が未来を表す場合(仁田義雄)
  4. 一人称単数主語の場合の心理動詞の使用に関する考察(伊藤龍太郎)
  5. Irrealis としての接続法と未来(和佐敦子)
  6. 中国語の「する」と「した」と「している」(井上優)
  7. 日本語と韓国語のテンス・アスペクト形式について—「シテイル」形との対応関係を中心に(高恩淑)
  8. テンス・アスペクトの教育(庵功雄)

テンス・アスペクトは言語学の研究において重要かつ蓄積も多い研究領域ですが,日本語研究においてもテンス・アスペクト研究は人気があります。研究に歴史がある分ある程度「スタンダード」とされる見方もあるわけですが,本シリーズは,そのような「スタンダード」をベースとしない研究によって,日本語のテンス・アスペクト研究にもまだまだ課題や未開拓な領域がいろいろあることを示すものになっています。

このように,シリーズ全体が挑戦的な課題を持っているのに加えて,第1巻は「する」(ル形・終止形)をメインにしていること自体が特徴的だと言えます。もちろん「する」を対象にした研究もこれまでいろいろなされてきたのですが,特にテンス・アスペクト研究では「(し)た」・「(し)ている」に焦点が当てられることが圧倒的に多く,やや厳しい言い方をすれば,「する」の特性や位置付けは「(し)た」・「(し)ている」に合わせた便宜的なもので済まされることも少なくありません。

一方で,「する」は基本的には「無標」な形なので,どのような側面に光を当てて研究すればよいのかという点では難しいところもあります。この巻に収録されている研究は,さまざまなアプローチ・現象・対照する言語から「する」の特性に迫っていますので,その難しく面白い世界をぜひ味わってもらえればと思います。

最後に,せっかくなので私が書いたものについてちょっとだけ解説しておきます。

私の研究では,日本語における「する」を「不定形」と考えることは妥当かという視点から,用語と関連現象の整理,等位節を使ったケーススタディーを行っています。生成統語論の詳しい話はあまり出てきません。

私の知る限り,「する」を分析の都合上不定形と仮定しておくという研究はそれなりにあるのですが,「する」(の一部)を不定形として積極的に位置づける研究はあまりありません(私の力量不足で取り上げられなかった古い日本語の研究ではまたちょっと事情が違うみたいですが)。実は,その限られた研究の1つが以前書評を書いた三原建一『日本語の活用現象』だったりします。こういう背景もあって,書評内でも不定形の扱いについて書きました。

dlit.hatenadiary.com

私が今回書いた中では,「不定形かどうか」を議論するためには用語や概念をかなり丁寧に整理した方が良いよ,ということと,定義によっては「不定形」としか考えられないような不思議な「する」もある,という辺りがこの問題にとっては重要でしょうか。

読んだ方はあまりはっきりした結論がなくてもやもやするかもしれませんが,私ってどうしてもこういう「みんなが困るだろうパズル」の存在を示すタイプの研究が好きなのですね。で,自分も困っているという。この中で示している等位節絡みの現象は,けっこう面白いと思いますので文法と形態の関係に興味のある方はぜひ考えてみて下さい。

私が「不定形」について何か書いておこうと思ったきっかけの1つに,(動詞の)連用形の研究をしているとときどき「連用形ってつまり不定形/不定詞でしょ。それ以上に何かやることあるの」みたいなことを言われる,ということがあります。でも,よく性質が分からないAについて「Bと考える」ことによって解決するのは,Bの性質がよく分かっている場合ですよね。そもそも「不定形」を認定するかどうかで議論がある日本語を除いて考えても,「不定 (non finite)」とか「不定形」ってけっこう扱いがやっかいで,そんな簡単なものではないのです。このことは,他の研究者で賛同してくれる方もこれまでそれなりにいたのですが,和文文献ではっきり書いてあるものが意外とないような気がしたので自分で書いてみることにしました。

さらに重要なのは,「不定形(と呼ぶ)かどうか」が重要なのではなく,関連する言語現象の記述と分析を進めるべきというところですね。「日本語の現象の一部を「不定形」と呼ぶことは、Bloch (1946)の時代であれば卓見であったが」のような,(論文ではおとなしめの)私にしては強い表現を使っているのはこの辺りのことを強調しておきたいと思ったからです。