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歯切れが悪いのは仕様です。

大学教員であることは「一般社会」での過ちを免罪しない

これまでも他の話題で書いたことがある気がしますが,大学(を拠点にした研究界)がある種「一般社会」から隔絶されているとか,「一般社会」では許されないような行為・人が許容されるという感覚・考え方は確かにあると思います。

https://twitter.com/MarathonUniv/status/1198897437315723264

ここから先の議論は,「人格が破綻」とか「許容される」の意味や範囲をある程度詰めないと空転しそうですし,この記事でもそこまでやるつもりはありませんが,今回の件は研究界内のローカルな出来事ではなく,「一般社会」とのつながりの中で行われた(むしろ積極的な発信としてすら捉えられる)言動なわけで,「アカデミアでは多少の変なこと・人も許される」とはだいぶ話が違うのではないでしょうか。

大学や研究界の一部を「隔絶させるという形でそのほかの社会と関わらせる」という選択肢はあっていいと思いますが,大学や研究機関,研究者集団全体を「一般社会」と完全に切り離して考えることは無理でしょう(それぞれの社会・世界をはっきりと分けて考えること自体にも慎重であるべきだと考えます)。研究活動に参加できるならそのほかの面で多少エキセントリックであってもその中で生きていけるということがあるとすれば,それはそれで個人的には研究者集団の良い面だと考えています。しかし,それは「一般社会」の構成員としての受けるべき批判や非難を免罪するということにはならないのではないでしょうか。

もちろん,「一般社会」の構成員としてダメだからといって,研究の内容を間違いと断定するとか,学歴や職階でおとしめて良いという話にもなりません(研究史上どのように扱うか・記述するかというのはまた別の問題としてあるでしょうが)。

大学教員として教育に関わる上で差別的言動は許されないというのは当然として,研究(者)という範囲だけで考えたとしても「研究者だから多少変なことは許される」というような形の話にはしない方が良いと思います。ましてや研究者や大学教員自身が今回のようなケースをそのような話に持って行ってしまうのはいろんな意味で「危ない」のではないでしょうか。

構成員や分野によっていろいろな方針・考え方があって良いと思いますが,ある程度独立した世界を維持したいというのならなおさら「外」との向き合い方に真摯・誠実になるべきです。