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歯切れが悪いのは仕様です。

小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』雑感

はじめに

webで見かける評価が同じ書籍に対するものとは思えないほどばらついているように見えたり、この書籍について評価が対立している人たちの話がどうもかみ合っていないように見えたりするのが気になったので、電子書籍版を購入して読んでみました。結果として私は読んで良かったと強く思いましたので、もうすでにいろいろな感想や書評が出ているのでしょうけれどもおすすめするために記事を書くことにしました。

これから書く私の感想の中で特に重要なところだけ先に書いておきます。

  1. ナチス(がやったこと)はとにかく悪いんだと決めつけたり断罪するような本ではありません
  2. ナチスがやったことをそれぞれ具体的に検討しています。
  3. 単純化や切り取りをせず、丁寧に評価することが提案・実践されています。

本書では「ナチ」と「ナチス」が使い分けられていますが、この記事ではそれは難しいので「ナチス」で統一します。これらの用語の使い分けに対する説明は「はじめに」の最後(p.12, Kindle版)に書いてあります。

また、電子書籍版しか手元にないので引用等はKindle版の(おおよその)ページ数で示すことにします。

構成や文体など全体的な特徴

表現・修辞の面でも構成の面でも複雑・難解ということはなく読みやすいです。論理展開が複雑だと感じるところも特にありませんでした。

目次は岩波のページから確認することができます。

www.iwanami.co.jp

このページでは「試し読み」から「はじめに」をすべて読むことができますし、参考文献リストも確認することができます。読もうかどうしようか迷っている方はもちろん、ぜんぶ読む気はないという方でも「はじめに」は読んでおいて損はないのではないかと思います。ここに本書の性格、特徴が具体例付きで分かりやすく書かれています。

参考文献とは別に章ごとの「ブックガイド」が付いているのも非専門家にはたいへんありがたいですね。

章構成は、4章からが本書の主目的であるナチスがやったこと(政策等)の検証なのですが、その下準備に当たる3章までも重要なことがいろいろ書かれています。個人的には3章の「ドイツ人は熱狂的にナチ体制を支持していたのか?」に知らないことがいろいろあって印象に残りました。

また、「かつての研究では〜だったが今は〜と考えられている」というようなナチス研究史に関する情報があるのも嬉しいところです。私も自分の研究分野の話題で時々言及するように、研究史や学説史というのは非専門家からは特にアクセス・評価が大変なところですからね。

評価への踏み込み方

一部の人文系の研究者の感想などをwebで先に見ていたので、ナチスをとにかく悪いものだと決めつけるような本ではないことは予想していたのですが、思ったより「評価」に踏み込んで書かれていることは意外でした。もっと(本書で言う「解釈」も含めた)「事実」の比重が大きいのかと勝手に推測していました。やはり実際に読んでみるのは重要ですね。

「評価」も取り扱っているとは言っても、同じことがらについて個人の主観や基準によって「良い」か「悪い」かが変わるというようなところについて論じているわけではありません。

では何が重要かというと、ナチス(がやったこと)を評価する際に考慮に入れた方が良い観点が明示されており、実際に個々の政策等について検討がなされていきます。その観点とは、1) その政策がナチスのオリジナルな政策だったのか(歴史的経緯)、2) その政策がナチ体制においてどのような目的を持っていたのか(歴史的文脈)、3) その政策が「肯定的」な結果を生んだのか(歴史的結果)、の3つです(p.55, Kindle版)。

それぞれの政策の評価については簡潔に具体的に書かれていますので、気になる方はぜひ読んでみてください。

また、筆者らの評価はおおよそ「これらのいろいろなことを考慮するとナチスのやったことは単純に「良いこと」だったとは言えないだろう」というような形になっていると思うのですが(実際の表現は章ごとに違います)、評価を押し付けているという感じはなく、むしろ読者が評価(の検討)をするための交通整理をしてくれているような印象を受けました。

具体的な検討と切り取りや単純化への危惧

本書を読んで強く感じたのは、評価を行う際には個別のことがらについてそれぞれ具体的な検討が重要だということです。従って、本書を受けて「どんな悪いやつだって良いこともしているだろう」のような一般論に議論を進めてしまうのはとても変だと思います。

もちろん、そのような一般論を議論すること自体に意味がないとかそういうことではありません。ただ、その種の議論のためにはまた別の準備や予備知識が必要でしょう。抽象的なことをきちんと論じるというのは実はけっこう難しいことです。

また、本書で取り上げられているさまざまなことがらについて「ナチスは「良いこと」もした」というのは単純化や切り取りをしないと言えないことだという指摘も重要です。だから具体的に丁寧に検討する必要があるというわけですね。

特に象徴的だと感じたのは、『健康帝国ナチス』の取り扱いに関する説明です。

これらの「ネタ帳」ははっきりしている。ロバート・プロクター『健康帝国ナチス』である。本書はすでに二〇〇三年に邦訳が刊行されており、ナチ健康政策を多面的に概観することができる良書である。著者の基本的姿勢は、「日常的な平凡な科学の実践と日常的な残虐行為の実践とが共存しうることを、もっとよく理解する必要がある」という一文に尽きている。「日常的な平凡な科学の実践」には良いとか悪いとか簡単に判断することの難しい、複雑で多面的な要素が含まれていること、だがその背後には「日常的な残虐行為」という(「悪い」としか言いようのない)ナチ体制の負の側面がつねに存在すること。この二つの側面が緊張感をもって描かれるのが本書最大の特徴と言ってよい。にもかかわらず、そうした論旨の複雑さをあえて無視し、多面的な要素のなかから自説に都合の良いデータだけを抜き出すということが、しばしば行われている。
(pp.129-130, Kindle版, 強調はdlitによる)

当初は本書のこのメッセージをうまく伝えられないかなと思ってたとえをいくつか考えてみたのですが、書かないことにしました。私自身あまりたとえがうまくないということ以上に、たとえを使って伝えるということがまさに単純化や切り取りにつながり、具体的に考えることを置き去りにしてしまうことにつながるのではないかと考えたからです。

なお、それぞれのことがらについて「これはこういう面から見るとまだ「良いこと」と言えそう」というような記述も出てきますし、過剰にナチスをネガティブに評価することに釘を刺しているところなんかもあります。また、ナチスやヒトラーを絶対悪と位置付けたり悪魔化することへの危惧も書かれています。ちゃんと読むと、何より筆者らが慎重に個別の評価を行っていることが窺えます

専門家によるデバンキング

「はじめに」や「おわりに」を読むと分かるように、本書にはwebで出会うナチスに関する誤った情報へのデバンキングという側面があるようです。ただ、時折webでのエピソードは出てくるものの、全体としてはむしろさいきんのナチス研究への良いガイドブックという内容になっています。その点で、「トンデモを斬る!」的な爽快さを期待している人には肩透かしになるのかもしれません(というか筆者らが「○○は実は間違っている」パターンへの危惧も示している)。簡単に白黒付ける前にとにかく丁寧に具体的に考えようというのが筆者らの示しているポイントの1つなのではないかと思います。

一方で、明らかに誤った情報や説にとっては、検討の対象になること自体が言わば「格上げ」になってしまうという困った問題も存在します。専門家からは明らかに評価の異なる説が対等に両論併記される問題とかもありますね。なので、専門家にとっては問題のある情報や説にそもそも言及するかどうかというところから悩ましいです。

さらに、間違いの指摘というのは「カウンター」というだけで反発を招いたり悪印象を持たれることがあります。「あとがき」にも「専門家の責任」というセクションがありますが、どの分野でもいろんな人が頭を悩ませている問題ではないでしょうか。

筆者自身、ツイッター上である一般書の誤りを指摘した際に「粗探しだ」といった非難を受けたことがあるが、専門家と非専門家はどうしても教える/教えられる関係になるので、間違いの指摘が「マウント行為」と受け取られるのは避けがたいところがある。専門知識が軽視される昨今の状況においては、専門家による啓蒙活動にはやはり限界がある。だがそれでもこの状況を放置すべきでないとすれば、専門家は一部の反発を覚悟しつつも、粘り強く専門知識を伝える努力を続ける必要がある。
(p.146, Kindle版)

おわりに

この本を読んで「ナチスを悪と決めつけている」というような感想になるというのは私にはちょっと信じられません(「はじめに」だけ読んでもそうはならないような)。一方、何か文句は言いたいけど(言いたいから)読まないという人がいるのはテーマがテーマであることとタイトルが刺激的なことからも分かる気がします。それに加えて、内容は気に入らないけどすごく明瞭に書かれているので(部分的に)読んだけど読まなかったことにしているという人もいそうだなというのを読んだ後に思いました。

個別に面白かったところもいろいろあるのですが、紹介としてはこれくらいで十分でしょう。ブックレットということもあって、歴史が好きな人にとっては本書の情報だけでは満足できなかったりするのでしょうか。でもブックガイドも付いてますしね。

専門家の責任についてもやはりいろいろ考えさせられます。刺激を受けましたし勇気づけられもしたものの、ここでさっと書けることは今の私にはありませんし、何よりやはり自分の分野の状況や話題ごとに具体的に考えてみることにします。