誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

はてなブックマークからIDコールがなくなってから考えたことについてちょっとだけ

 廃止された時に下記のような記事を書きましたが,さいきん気付いたことを少しばかり。

dlit.hatenadiary.com

まだIDコールの表記自体は使っている人がいる

 やっぱり表記自体見かけることはすごく少なくなったという印象があるのですが,まだちらほらはてブ上で「id:○○○○」といった表記を見かけます。

 見ていると,IDコールが廃止されたことは知っているけれど,言及先を明言するために使っている人がいるようです。ブコメにそのように書いているケースを複数見かけました。

 確かに私もこの10日ぐらいで「あーIDコールなくなったんだった」と思い出してやめたことがあったので,今後そのような用途で表記だけは使われるかもしれませんね。

 ただ,上に書いたように「なくなったのは知ってるけど意図的に使ってるよ」という文言をブコメに入れるのは大変なこともあるでしょうし,かといってそのように書かないとIDコールがなくなったことに気付かないで使っていると思われてしまうことがありそうなので,今後表記が工夫されていくみたいなことが出てきたら面白いのですけれど。あまりいじると覚えにくいので「ID:○○○○」「Id:○○○○」みたいにするとか?「iD」だと某電子マネーとかぶっちゃいますね。

 まあでもそのうち自然消滅するかな。

ソーシャル感は減った

 IDコールがなくなったこと自体はしかたないかなと思っているのですが,当たり前なのですけれど,ソーシャルブックマークとしては情報の共有が少し難しくなったケースがあるなと感じます。

 たぶん,これから特定のユーザーやブコメに言及する場合には今まで以上にメタブが使われるようになるのではないかと思うのですが(あるいは特定しにくいけれど「↓」辺りにシフトするのでしょうか),メタブだと「私以外の誰かが,さらに他のユーザーに情報提供した」ケースに気付きにくいのですよね。以前はIDコールが入っているコメントから良い情報に辿り着いたというケースがけっこうあったのですけれど。

 ブクマの対象になっているブログ記事の書き手やメタブされたユーザー,あるいは情報提供した方をお気に入りに入れていれば気付く可能性は高いと思うのですが,前のようにブクマページを一覧していると出会えなくなったなと。発信者は特定の人に向けているけれど,実はその他の人にとっても有用,というコメントや情報はけっこうあると思います。

 特に何か良いアイディアや提案があるわけではないのですが,やっぱりIDコールの廃止もソーシャルメディアの変化の1つとして数えられそうだなと考えているところです。

IDコールや「いいね」の廃止とコミュニケーション(の研究)

 はてなブックマークのIDコール廃止(決定)のニュースとTwitterが「いいね」の廃止を検討しているというニュースを同日に見たので少しメモしておこうと思う。

bookmark.hatenastaff.com

corriente.top

CMC研究とサービスや機能の変遷

 こういう機能と「コンピューターを介したコミュニケーション (Computer-Mediated Communication: CMC)」研究については,少し前にもちょっとだけ書いた。

dlit.hatenadiary.com

 はてなについては以前は(今でも?)他のユーザーとのつながりやすさを売りにしていたと思うのだが,はてなブログからのトラックバックの廃止やこのIDコールの廃止等,制限されるところも出てきているようだ。

 言語やコミュニケーションの研究に触れていると,ディスコミュニケーションは当たり前の現象というか避けることが不可能というのが良く分かるので,誰もが(ほとんど)傷つかないコミュニケーションができる場・機能をというような考え方には共感しないが,システムや機能の特徴によって不幸な事態が引き起こされたり増幅されたりということがあるのであれば,検討の対象になるのは当然かと思う。

 1990年代に比べると,web上の各コミュニティ間の境界はやはり薄くなっている気がするが,一方で各サービスやツール,機能等によるある程度の境界の保持という動きもあるのかなという印象がある。たとえばRSSは結局あまり普及せずそれより各サービスのユーザーのみに配信される更新情報(例:はてなブログの「購読中のブログ」)の方が使われているとか。

 こういう変遷は程度の差はあれ確実にコミュニケーションに影響を与えていると思うので,実際に人々が使っているうちにデータを取り研究するのが良いのだろうが,私の専門である言語学・日本語学の研究のスピード感だとなかなかサービスや機能の変遷のスピードに付いていけないのではないかというのが実感としてある。

 たとえば,Twitterで以前使われていた「引用RT(QT)」は引用表現の研究対象として面白いと思っていたのだが,発言全体にコメントを付けられる機能が用いられるようになってからはかなり使用が減ってしまい,以前見られた引用RTを交互に重ねるコミュニケーションは探すのも難しくなってしまった。このようなケースについては今準備中の論文で少し触れたいと考えている。

 あと,言語学の研究ではやはり発話されたものを研究するのが得意なので「いいね」のような機能までも含み込んだ研究がどれぐらいできるか,あるいはやる人が出てくるかという点については心許ない(IDコールのようなものは発話に組み込まれているのでまだやりやすい)。

 どの研究分野でも良いので論文として記録や記述がなされていると良いのだけれど(自然言語処理とか社会学とかかな)。

おまけ

 IDコールは個別の事例を思い返すと個人的にはあまりこわい思い出はないのだけれど,やっぱり通知が来ると緊張するものだった。10年以上もブログを書いてきたけれど,今でもコメントが付いたというメールを読むのはあまり気が進まない。はてブやTwitterでも簡単に反応できる今,それでもコメント欄を残してあるのはブログと同じ場にも書き手以外の誰かが反応できる余地を残しておいた方がいいからではないかと考えるからである。

はてブのカテゴリー変更禁止・再判定の体験とブログの書き手として思うこと

体験

 昨日書いた記事

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のはてブのカテゴリーが最初「暮らし」になっていたので「学び」に変更しようとして気付いたのですが,そもそも変更自体できなくなったのですね。

www.zubora-hana.com

 私は自分で書いた記事についてしかカテゴリーを変更せず,さいきんほとんど書いてなかったので気付いていませんでした。
 で,上記の記事については3ブクマぐらいまでは「暮らし」だったのですが,1桁ブクマ数のうちに「学び」に再判定されていました。今でも「学び」のままのようです。
 今回はすんなり希望通りになりましたし,私がこれまでやってきた変更のほとんどは何かのカテゴリーから「学び」にするというものなので,これからもうまく判定が機能すれば良いのですけれど。

勝手な希望

 編集合戦のことを考えると,変更自体制限するというやり方は分かります。
 一方で,ブログの書き手としては自分が書いた記事のカテゴリーが変更できないのはもどかしい気持ちもあります。
 たとえば,その記事を書いた人だけはてブのカテゴリーを変更できるというようなやり方は難しいでしょうか。少なくともはてなのサービスであればアカウントで判別できそうですがそこまでするほどの利点はないですかね。もちろんいろんなサービス・ブログに対して適用できるのが良いと思います。