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歯切れが悪いのは仕様です。

水伝記事のその後、と論理について思うこと

 水伝の記事を書いてからもう結構経ちましたが、色々なサイトで紹介していただきました。ほぼ全てのサイトで、僕の言いたかったことを簡潔にまとめてくれた上で、フェアな仕方で紹介していただいたことに感謝しています。ありがとうございました。一番不安だったのは専門でない方にもわかってもらえるかどうか、という点だったのでとりあえずほっとしています。今のところ言語学畑の方からのお叱りもありませんし。
 コメント欄でも少し触れた議論なのですが、「言語記号の認識」の話を本文の方に「追記」として書き加えておきました。こちらはもしかしたら言語学者の方から異論やお叱りがあるかもしれませんし、他の議論より読みにくいかもしれません。ちょっとどういう風に説明すれば良いのか、どのような例を挙げれば良いのか迷ったもので…
 ところで、ここのコメント欄ではあまりそういうことは無かったのですが、他のブログのコメント欄や記事を紹介していただいたサイトの意見などを通して、論理的な点で「あれ?」と思うことがちょっとだけありました。それは、

  • 私の記事が明らかに論理的に含意しているわけではない主張を引き出してきて、さらにそれに批判を加えられることがある

 ということでした。これについてはTAKESANさんのブログに激しく頷いてしまった記事があったので引用してみます。

書いて(言って)いない事は考えてもいない、と思う、早とちり屋さん。
書いても(言っても)いない事を補って決め付ける、早とちり屋さん。
どっちにも、なりたく無いですね。

 全く同感です。
 …で、話はほぼ終わりなのですが、もう少し細かく考えてみます。なぜかというと、論理的な議論というものは常に完璧にミス無しでやり通せることではないとも思うからです。議論や主張が複雑な論理構造になっていたり、前提となる知識や命題が多かったりするとどうしてもミスは出てくると思います。特にリアルタイムでのやりとり(口頭での議論)では結構見受けられますし、論理的なミス(あるいは故意の隠蔽)というのは結構有名な研究者の有名な論文にだってあったりするものです*1。しかしもちろん、論理を適当にして良いとか、間違っても良いとかというわけではなく、大事なのは次のような点だと思います。

  • 常に論理的な点で誤りが無いか細心の注意を払う。
  • 間違いを指摘されたらすぐにそれを検討し、自分の議論をチェックし直す。

 つまり、「早とちり屋でかつ頑固、決め付け屋にはならない」ということでしょうか。
 僕がこの点でいつも参考にし、かつ感心するのは哲学者(の議論)です。もちろん学問はどの分野でも論理を大切にしますが、(少なくとも僕の知っている)哲学者の論理に対する潔癖さ、細やかさや、隠れた前提に対する敏感さなどはいつも読んでいて「見事だなあ」と思います。
 このブログで言語学を学ぶ人用の参考として哲学関係の書籍をよく挙げるのも、そういった分野の知識が実は言語学にとって重要だというのに加えて、この辺りに動機があったりします。
 あと、これも最近他のサイトを回っていて感じることですが、「議論のまとまり」を把握せずに変に局所的なところに噛み付く人ってのも結構いますね。具体的に言うと、その議論の目的や、ひどいものになると明言している「〜だとすれば」という条件なども無視してしまうというものなどがあります。もちろん局所的な問題が重要なこともありますが…研究会や学会とかでもいるんですよね、とにかく発言に含まれている単語やフレーズにだけ脊髄反射していきなり的外れの反論を展開し始める人…
 まあ愚痴はこれぐらいにして、つまるところ「論理ってやっぱり大事だね」ということです*2。そして「論理ってやっぱり難しいね」ということでもあります。論理的であるというのを真摯に実践するということは、本当に気を使う作業だと思うのです。まあ簡単にできる人もいるのかもしれませんが、「論理的だと思い込んでいる、論理的でない議論」というのが一番危ないし、厄介だと思う今日この頃なのでした。
 自戒も込めて。

*1:むしろそういうのは研究のタネになったりするのですが(笑)

*2:こういうことを言うとすぐに脊髄反射的に「論理より大事なことがある」などと言い出す人がいますが、そう思った人はぜひ「何にとって」論理が大事なのか考えてみてください