文系/理系って括りについてはもういろんなところでいろんな観点から散々議論され尽くされていると思うので、特に提言などはしませんが、言語学の方で気になる事情と雑感を少しばかり。
なぜかというと、言語学って文系/理系の区別による弊害を結構まともに被ってる分野のひとつなんじゃないかと思うのですよ。特に多いと思われる、僕も実際に見かけてきたパターンが、
- 数学が苦手なので、人文系の学部に入学する
- 言語学と出会い、その道の研究者を目指す
- なぜか数学(っぽいもの)と再邂逅、戸惑う。
- 勉強してるうちに、色んな分野でなんだか数学っぽい記号が出てくるのでだんだん不安になってくる
- 先行研究を調べていると、自分の研究内容に関係するものなのに、記号や数式のようなものを駆使した論文を見つけてしまい…
って感じです。言語学は統語論はもちろん、形式意味論なんかはほんとに論理学と数学の世界ですからね。実際、たとえば生成文法統語論の「数学っぽさ」なんて、形式意味論に比べればかわいいもんです。他にも、心理言語学や社会言語学で研究する場合には統計にも明るくなくてはならない場合が多い。言語学者であろうとするならば、自分でそれを駆使するかどうかはともかく、数学、というか数学的思考法/数学的表現法から逃げ続けることはほぼ不可能です。
しかし、ここで僕が言いたいのは、「だから1みたいな人には言語学はできない」ということではないのですね。実際、数学は苦手だという人でも統語論、形式意味論、統計なんかをきちんと勉強して、自分の研究に生かしている人は多いですから。高校数学ができなくても、論理的思考ができる人はたくさんいますし(というか、そういう人しか大学院には来れないと思います。来てもつらいでしょう)。
ただ、どうも高校までに植えつけられる「記号アレルギー」みたいなものがあるようなのですよね。実際の勉強に入る前に、もう「数学っぽい記号」が出てくるだけで「ああ、もうダメ」という心持ちになってしまう人は意外と多いようです。そこで一念発起して勉強してみて、「なんだ、意外と難しくないじゃん」となるか、なんとなく避け続けていく道を選ぶかは人それぞれのようですが、せっかく苦手ではないかもしれないのに、そういった苦手意識によって自分の研究の幅が狭められてしまうのは、かなりもったいないような気がします*1
実はこの発想はオリジナルではなくて、大学院に入りたての頃に先輩から
君は記号とか見るとわくわくしてくるタイプでしょ?でも言語学には記号にアレルギーがある人も結構いるんだよね。
と言われ目から鱗を落としてから、ずっと気にしていることなのです。ちなみにその先輩は形式的統語論にも形式意味論にもものすごく強いすごい人です。
で、こっからちょっと過激なことを書きます。
上のような事情もあってか?言語学には理系人間/文系人間、というか対象の数学的取り扱いについて慣れている人/慣れていない人が結構混在しているような気がします。
で、言語に対する数学的取り扱いの発達って、それまで言語をそういう対象として見てこなかった人たちからすると極端に言えば外圧/侵略のようなものだと思うのですよ。それに対して「なんだか難しそうなことやってるから関わらないようにしよう」って態度は無条件降伏に近くないか?と。
しかも人文「科学」だと銘打ってしまっている以上、「人間言語はもっと豊かで情緒あふれるものだ」では反論にならない。言語への形式的/無機的取り扱いに対抗するのであれば、その不十分さを科学的に論証していく必要があるでしょう。さらにそこから代替理論として、人間言語の”豊かさ”を取り扱うためには、言語理論へ連続性、ファジーさ、複雑性などをきちんと「形式的に」取り入れていかなければならないと思うのですが…
僕が言語学を始めた頃は認知言語学に興味を持ちながらも、最近では思い切り生成文法の人、なのには実はこの辺りに一番の原因があったりします。
僕は初め、認知言語学は認知心理学や脳神経科学、AI論などの知見をフルに生かしながら、これまでの離散的な言語への捉え方に連続性や複雑性といった概念を形式的に導入する、言語学の最先端の理論の萌芽だと考えていました。生成文法:線形、認知言語学:非線形といったような非常に安易な捉え方さえしていました。ところが、時折面白い提言を行っている人も見かけますが、今のところ認知言語学にそういった動きは無いように見受けられます。
話が大幅にそれてしまいましたね。どういうことが言いたいかというと、
- もういったん言語学の中に数学的手法が取り入れられてしまった以上、それを発展させていくにしても、越えていくにしてにも数学的手法に対する勉強と対策は避けようがないのではないか。
ということなのです。
*1:個人的には、この問題は言語学者としてはかなり致命的だと考えていますが…