killhiguchiさんの以下のエントリでのコメントに対する僕なりの回答です。
『日本語に主語はいらない』に突っ込む:(6)理論がコロコロ変わり過ぎなんだよ! - 思索の海
少々答えが長くなりますし、引用なども使いたいので別エントリでたてました。なんかタイトルが一冊の本すらかけそうなほど壮大ですが、ここでの内容を端的に表すタイトルを考えるのが難しくて…期待して記事を開いてくださった方々、すいません(^^;そして少しでもkillhiguchiさんへのお答えになっていればいいのですが…
さて、killhiguchiさんの問いは以下のようなものでした。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21639848&comment_count=5&comm_id=54058
>ミニマリストの流れは「UGの最小化」であって、理想的には生得的言語知識をゼロにすることなのです。
UGの最小化まではいいとしても、生得的言語知識ゼロにすることが目的なんですか?私が知っているミニマリストプログラムとは違うような。私は最新の動向については知らないので、もしお暇があれば御教授下さい。
※発言の引用元はmixi内のコミュニティでの発言です。mixiにログインできない方には申し訳ないです。前後の文脈もそんなに影響無いと思いますので、割愛します。
僕も(恥ずかしながら)最新の動向を把握しているわけではないのですが、思いつく点がいくつかあるので書いておくことにします。
◆理論的背景
まず、killhiguchiさんが「UGの最小化」とお書きになっているように、ミニマリストプログラムの時代に入って、次のような作業仮説の元に研究が進められています。
その流れの一つとして、次のような仮説が2000年頃に提案されています。
- The strong(est) minimalist thesis: 言語(機能)は判読可能性条件(legibility condition)に対する最適解である。
さて、よくわからない用語が羅列されていて、生成文法っぽくなってきましたね(笑)ここではかなり荒っぽく説明してみます。まず、上のテーゼは次のように簡単に言い換えることができます。
- 言語機能は、それとリンクしている認知システムに対して、それらのシステムが解釈可能な最適な出力を与える器官である。
これでもまだ?でしょう。まず、「リンクしている認知システム」というのは、聴覚・発音(つまり”音”)に関するシステム、概念・思考(つまり”意味”)に関するシステムを指します。
つまり、上の表現をさらに言い換えると、
- 統語部門は、音や意味に関する言語外のシステムがきちんと理解できるようなものを作ってあげなきゃいけませんよ。
という感じです。なんでこれが言語機能の最小性につながっていくかというと、この仮説は「統語部門において作られた言語(表現)に対する種々のチェックは、全て外側のシステムからの要請によるものだ」というものだからです。
例えば、GB理論の頃では言語表現の指示(reference)に関する原理である「束縛理論」も、言語機能固有の原理(知識)でした。現在ではこれは意味に関するシステムからの要請、ということで言語機能、すなわち普遍文法の一部ではなくなってしまっています。
つまり、現在では言語機能(統語部門)というのはひたすら単語や素性などをもとに構造体を組み上げていくだけで、作られたものに対するチェックは言語機能外のシステムとの接点(これがいわゆる”インターフェイス”です。知ってる方なら"LF/PF"って単語がすぐ浮かぶでしょう)において、言語機能の外のシステムの都合に従って行われるわけです。
さらに現在では統語部門において唯一残されたといってもいい”組み上げる”操作は、併合(merge)という非常に単純かつ一般的*3な操作によって行われます。これもあまり言語機能特有の操作だとは言い切れないような性質を持つもので、もしこの操作も言語機能の外側の認知システムによって動機付けられるなら、言語機能固有の原理、法則などというのは無くなってしまいます…
◆研究者のスタンスについて
…というのが、最小主義から普遍文法の知識ゼロ、へ至るおおまかなストーリーですが、これはあくまで仮説であるということに注意してください。これが引用元の「理想的には生得的言語知識をゼロにする」という表現が微妙になってくるところなのです。
この「理想的には」という語をどう解釈するかが問題だと思います。上で紹介した最もradicalなthe strong(est) minimalist thesisを作業仮説として設定し、その可能性を探っていくのがミニマリストプログラムの現在の方向性だ、というのならば良いと思うのですが、「ミニマリストの枠組みで研究している生成文法家が”全員”普遍文法の中身をゼロにすることを目標として研究している」という意味であるとすると、内情を知らない方にとっては、ちょっとミスリーディングな気がします。
もちろんthe strong(est) minimalist thesisは成り立つ、と信じて研究している研究者もいますし、作業仮説である以上できるだけより強い方向へ、と行く方法をとるのがおかしいわけではありませんが、チョムスキー本人ですらこのテーゼが成り立つことは”全く想像しにくいのですが”との感想を述べています。引用は以下の本、p.303から。この本にはここで取り上げた話題に関する議論も収録されているので興味がある方はぜひ。チョムスキーの英語読まなくてすみますし(笑)
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◆何が生得的か?
というわけで長々と解説してきましたが(やっぱりわかりにくかったですかね…)、そもそもkillhiguchiさんが、そして僕もひっかかったmixiでの書き込みは上のような議論においての「生得的知識ゼロ」ということだと思います。だから、きっと「え?それじゃあ言語機能は生得的だっていう生成文法の主張は何だったの…」という質問、あるいは混乱を招いてしまうんじゃないかなあ、と僕は危惧したのですよね。
もし仮に普遍文法特有の原理が一つも存在しないとしても、言語表現を構築する統語部門、そして音や意味に関する認知システムとの橋渡しであるインターフェイスは存在するわけです。だから、「言語機能に関するシステム」自体はやっぱり存在するし、生成文法が生得的だと言っているのはそういったシステムの存在なのですよね。また、インターフェイスでかかる「外からの要請」に関しても、例えば「照応形はその先行詞と特定の最小領域内になければならない(いわゆる束縛原理A)」なんてのは、厳密な意味での普遍文法から追い出したとしても、やっぱり言語にかなり特化した原理ですよね。
ただ、そうは言っても生成文法が言語機能固有の原理の領域をかなり絞ってきた、というのは言えると思います。
◆おわりに
…いかがだったでしょうか。やっぱりわかりにくかったかなあ…orz
僕もところどころ悩む、というか判断保留にしたいような点がありますしね。あまりきちんと調査しないで書いたので、ここに書いてあることを鵜呑みにしないでくださいね(笑)
*1:ここではもちろん言語に関する全ての認知システム、ではなくて生成文法でいうところの言語機能。端的に言ってしまうと統語部門(syntax)
*2:言語理論の簡潔さではなくて、言語システムそのものの簡潔さに対する考え方で、"substantive minimalism"とか呼ばれます。
*3:二つのものを一つにくっつける操作で、これが言語の再帰性(recursiveness)の根源だと考えられています。これと近い操作は言語機能以外の領域にも見つけることができます。「数える」や、「論理的含意」などがそれに当たると言われています。ちなみにチョムスキーは人間が無限に数を数えていける能力を持つのは、言語機能が持つ再帰性に由来している、というような考えを述べていたりします。