発端はmb101boldさんのこのエントリ↓
にyumizouさんと僕が↓のブクマコメントを付けたこと。
僕のは便乗コメントでほとんど中身無いですけどね(^^;
で、それに対するmb101boldさんの補足エントリ↓
お返事を考えている間にyumizouさんが分かりやすい応答エントリを書いてくれました↓
中心的な論点だった文法(構造)に対する考え方についてはほぼ同意なので、ここから先は僕の視点からの雑感をいくつか記しておきます。
漢文の文法の変遷については以下のエントリも参考にしてみてください↓
※追記(2008/02/27)
yumizouさんの上記エントリに対するmb101boldさんの応答↓
および、僕のこのエントリに対するmb101boldさんの応答も参考にしてみてください。
「複雑さ」について
まず、「文法の複雑さ」を何によって計るかということですが、これにはいくつもの選択肢が考えられます。
mb101boldさんが補足エントリの方で引用している田中克彦の次の著書からの引用を見てみると*1
- 作者:田中 克彦
- メディア: 文庫
「漢語の形式は、おそらく他のいずれの言語よりも、純粋な思考の力を表明しており、またそれは、あらゆるまごまごした、わずらわしい接続音を切り落としているために、魂は思考をめざして緊張し、専念するのである。」
豊穣な文法パラダイムからの解放は、西洋人の深層願望にもとづくものだ。しかし、かりに漢民族の文明がとるに足らないものであったとしたら、やっぱりそれは、ことばが駄目だからというふうになっていただろう。
http://d.hatena.ne.jp/mb101bold/20080224#1203870311
フンボルトの発言に「わずらわしい接続音」、それを受けての田中克彦の発言に「文法パラダイム」という表現が出てきていることから推測するに、これはおそらく動詞の活用や名詞の曲用など*2の形態論的パラダイムを中心に据えた文法観だと思います。
形態論のパラダイムが複雑(≒語形変化の数が多い)ということをある言語に関する一つの複雑さの指標として用いることには特に問題は無い*3と思いますが、ここまでフィールドワークが発達し世界中の様々な特徴を持った言語についてのデータが揃ってきている現代においてそれを「”文法”の複雑さ」というのはちょっと無理があるかなあ、と思います。
以下はmb101boldさんのご発言です。
いろんな学派があって、いろいろ意見はあるでしょうけど、まあ、西洋の言語学というパラダイムでは、こんな解釈が一般的とは言えるのではないでしょうか。今の言語学の最前線というのは、そういう西洋の言語学のパラダイムを乗り越えるということでもあるのでしょうし、ちょっと西洋目線の古典的文法観のきらいがありますが、立場はともかく、一般教養としてこう言えるかな、と。(もちろん、西洋の文法パラダイムとは違う文法パラダイムを適応して、正則漢文が複雑な文法構造を持っているとも言えますが、そこまでは踏み込みませんでした。)
http://d.hatena.ne.jp/mb101bold/20080224#1203870311
僕は現在の西欧の言語学者の「多数派」という意味での標準的な見解に関して自信を持って何かを言える知識も経験も付き合いも無いのですけれど、学問としての言語学という観点から言えば、そんな偏った前時代的な文法観は最前線云々ではなくとっくに乗り越えられてると思いますし(類型論(typology)をある程度勉強していれば)、「高度な文法構造を持った言語から高度な文明が生まれる」というような極めて素朴な信仰を持っている言語学者がどれ程いるのかも疑問です。「思想家」については守備範囲外なのでなんとも言えないのですし、一般教養レベルではそういう考え方が多数派であってもそこまで驚きませんけど*4。
実際にはmb101boldさんが括弧内でおっしゃっているのが学問としては誠実な立場だと思います。何かを表現するためにどのような手段を選択するのかは言語によって本当に様々ですので。
あまり比喩は上手くないのですけれど、形態論的(+α)パラダイムの複雑さによって言語を計るのを「身長を測る」ことだとすると、フンボルトのような見方は「身長を測ることだけによって人間としての質を決定する」ようなものだと言うと分かりやすいでしょうか。身長計ではあくまでも身長しか測れないということは当たり前のようですが意外と忘れられやすい重要な観点だと思います*5。
ここまでうだうだ述べてきましたが、yumizouさんの
私は,膠着語が複雑で孤立語は単純という見方をしませんが、
http://d.hatena.ne.jp/yumizou/20080225/1203922588
という指摘が端的で的を射ていると思います。印象論を越えたレベルで「複雑/単純」を言うのは結構難しいということですね。実際には「膠着語/屈折語/孤立語」なんて分類自体、きちんと見ていくと難しいものがありますし。
また、yumizouさんが
漢文という言語は、不思議なことに文法の複雑化というふうに言語は発達せず、簡素化に向かいました。
http://d.hatena.ne.jp/mb101bold/20080224#1203870311
という点について、
日本語文法も活用の種類が少なくなるといった方向に向かってきました。言語にも経済がありますから,文法ルールが少なくなるというのは,どちらかといえば自然な方向性ではないかと思います。
http://d.hatena.ne.jp/yumizou/20080225/1203922588
とお書きになっていますが、形態論的パラダイムという点について言うと、どうもこういう傾向は汎言語的にあるようです。英語なんか屈折どんどん無くなってますしね。ただ、局所的に見ると、例えば周囲の方言や言語の影響によって過去に失った屈折を取り戻すといった変化を経た言語についてのフィールドワークなどもありますので、一概には言えないようですけれども。
この点については例えばtouryuuuanさん*6が一旦漢文の文法が複雑になった一例として
中国語学の藤堂明保博士によれば「前置詞(介詞)が中世以後に多数登場している」(『学研漢和大字典』)ということです。
はてなブログ
と述べていますが、介詞を一般言語学的にどう捉えるかという問題を据え置いたとしても、前置詞などの側置詞(adposition)は機能語と内容語の中間的な性質を持ったクラスなので*7、「文法」にどれぐらい含めていいのかは実は意外と難しい問題だと思います。
まあ何とも味気ないまとめになってしまいますが、「”〜について言えば”複雑/単純」という基準をある程度明確にしないとなんとも言いようが無い、というとことでしょうか。特に複数の言語を比べる場合。そうした堅実なやり方は人によってはあまりわくわくしないものなのかもしれませんけれども。
「中国語」の文法について
もう一つ、何で僕がああいうブクマコメントを付けたかについて少し述べておきます。
そもそもmb101boldさんは漢文の文法について書いたわけですし、yumizouさんもtouryuuuanさんも漢文の文法ということでエントリをお書きになっているわけですが、僕の違和感は現代中国語の文法についての知識や分析の経験から来るものでした。
現代中国語についての論文はたまに読みますし、研究仲間と議論する時に中国語のツリーを書くのに挑戦したりすることも結構あるので全然喋れないくせに変に偏った文法の知識だけあるのですが、そうした体験を踏まえた上での実感からすると、「中国語の文法は簡単」などと言われると「ええ!?あんなに豊かで面白い文法を持ってるのに?」と思ってしまうわけです。もちろんこれは現代中国語についての話なので、漢文の文法に対する違和感は単なるアナロジーだったわけですが。
純粋なmorpnologistmorphologist*8からすると確かに中国語では比較的できることが無いかもしれませんが、統語論も合わせて考えると、これはもう面白いトピックだらけだと個人的には思います。文法ルールについてはよく主語と目的語の位置などが話題に上がりますが、文頭に来る場所表現(在〜)が統語的にどの位置にあるのかとか、様々な種類の副詞がどの位置に現れることができて、複数出現する場合にはどのような並び順になるのかとか、介詞の他にも副詞といわれているもので隣接性(adjacency)を要求するのがあったりして…とか、僕が知ってる狭い範囲でも結構面白いんですよね。そうそう、語彙意味論やヴォイスの観点から見ても色々(一見)複雑で面白い現象はありますし。
もちろんこれはネイティブに色々用例について話が聞ける現代中国語だからできることで、資料しか残っていないいわゆる古典漢文についてはできることも限られてくるとは思いますけど、古代中国語もそんなに簡単だったのかなあ、とはやっぱり思っちゃいますし、そこからさらに簡単になったのが現代中国語などと言われると違和感ありまくりなわけです。まあこれも印象論レベルの話ですが、mb101boldさんが引用されたフンボルトの話を読んで、「ああ、そういう見方なら」という風には腑に落ちました。
おわりに
言語と文化を簡単に結びつけて論じることの難しさについては過去に触れたので割愛します…というかここまで書いて力尽きました…
あと、mb101boldさんがチョムスキー云々のエントリをお読みになったようなのでそれについて言及しておくと、僕は「よく知らないのに気軽に口出しするな」とか言いたいわけではないのです。実際、そこのコメ欄のやりとりでも書いたように、自分もどこまで理解できているのかどうか自信がありませんし、チョムスキーの考え方は思想として見た場合も非常に射程が広いものなので、色々掻き立てられるものがあるというのはよくわかります。
ただ、具体的なテクニカルタームに関しては比較的きちんとした定義が与えられているのでそれに対してのよくわからない解釈などを目にすると「?」となることがあるのですよね。まあ一口にチョムスキーと60年代に言ってたことと最近言ってることではずっと変わらないところも大分変わったところもあるので、「チョムスキー」と言って一括りにすること自体変ですし、チョムスキーの考え方が全て生成文法の代表的な見解かというとそんなこともないですしね。
生成文法について一般書レベルで安心して勧められる日本語での解説書は今のところ無い気がしますし、かといって原書を読めというのは色んな意味で酷だしなあ*9…
*1:僕はこの本を持っていませんし、引用されているフンボルトの発言の出典も見当が付かないのでmb101boldさんのエントリからの孫引きにします。
*2:他にも接辞(affix)による語形成や接語(clitic)の存在なども視野に入っているかもしれません。
*3:実際には一般言語学的な視点から「語形変化」を捉える場合には結構複雑な問題が出てきます。気になる方は日本語の活用についての私見を述べた過去のエントリ(『日本語に主語はいらない』に突っ込む:寄道(1)日本語には活用も無い? - 誰がログ)をご覧ください。
*4:なんかどうも魅力的な考え方のようですし。言語観はどうしてもイデオロギーとか民族アイデンティティーみたいなものに結びつきやすいしなあ。
*5:もちろん、そこから体重を別に測定して、身長と体重の相関関係を調べる、なんていうやり方には問題がありません
*6:ハンドルはこれで良いのでしょうか…
*7:これもまた言語毎に差があって厄介なのですが。
*8:なんというtypo…
*9:訳書は原書よりさらに難しかったりして、とかってこともあったりしますし(^^;