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歯切れが悪いのは仕様です。

「セミナー「専門家と素人の対話」第一回:サイエンスコミュニケーションの現場」終了しました

 「セミナー「専門家と素人の対話」第一回:サイエンスコミュニケーションの現場」、終了しました。概要については、以下の告知エントリをご覧ください。

以下、簡単に個人的で断片的なレポートをまとめておきます。

会の様子

 参加者は15人ほど。亀@渋研Xさんのお話を聞きたかった方はきっとたくさんいらっしゃったと思うのですが、今回は僕の手際の悪さで多くの方が参加の機会を逃してしまったと思います*1。申し訳ありません。ほとんどが筑波大学の学生でしたが、人文社会科学研究科だけではなく、生命環境科学研究科からの参加者もいたのが嬉しかったです。あと、@さんも参加してくださり、セミナーの後の懇親会では色々興味深い話を聞かせていただきました。
 トーク自体は、僕の司会の手際がまた悪くて、フロアとの議論をする時間が全然もうけられませんでした。本当は質疑応答のまとめが多くの方の興味のあるところだと思うのですが、今回は代わりに、僕が最初の趣旨説明でしゃべったことと、亀@渋研Xさんの話で僕の印象に残った点について簡単に書いておきます。

趣旨説明でしゃべったこと

目的

 専門家と素人(非専門家)間における情報伝達・コミュニケーションの問題について、人文・社会科学的な視点から光を当てること。

開催の動機:(サイエンス)コミュニケーションと人文・社会科学

 サイエンスコミュニケーションの重要性は一般的にもかなり認知されてきていて、現にそういった活動を行っている大学や機関もある。一方で、コミュニケーション研究は人文・社会科学が得意とするテーマの一つなので、もっと人文・社会科学からの積極的な貢献があっても良いのではないかと考えた。また、研究者・研究機関の社会貢献という視点から見ると、人文・社会科学にとってもこの種のコミュニケーションは他人ごとではなく、身近な問題なはずである。人文・社会科学領域において、専門家と素人の間にある種々の問題についても考えていきたい。

みんな素人

 「専門家と素人」と言うと、世の中を「専門家集団」と「素人集団」という風に二分するようなイメージを持つかもしれないが、このセミナーで重要視している点は、「素人でない人はいない」という点である。専門家でない人はもしかしたらいるかもしれないが、どんな物事の専門家でも馴染みの無い領域と言うのはあるはずで、「あらゆる物事について素人でない人」というのはいないだろう。そう考えると、「専門家として情報をどう発信するのか」というのと同じぐらい(あるいはそれ以上に)、「素人として専門家とどう付き合うのか」というのは身近で重要な問題だと思う。

なぜ私(たち)が企画したか:所属組織について

 私たちは「インターファカルティ教育・研究イニシアティヴ」、通称"IFERI(アイフェリ)"という組織で、筑波大学人文社会科学研究科に属している。この組織では、関連する教員・学生ともに異分野融合・新領域開拓を目指して活動を行ってきており、人文・社会科学の中では異分野間の対話に関しての経験がある。また、「異文化・異文明間の対話」も一つの大きなテーマとして、数年間取り組んできた。これらの経験と、人文・社会科学のプロが多く集まる機関であるということを活かして、実践、研究の両面から「専門家と素人の対話」という問題に対してアプローチしていければと考えている。

亀@渋研Xさんの話

 「雑誌・本ができるまでと編集者(+ライター)の仕事」→「編集者として科学、そしてそれを担う専門家とどう付き合ってきたか」→「”ニセ科学”とその取り上げ方」という流れで話していただきました。具体的なエピソードや、また実際に現場に直接かかわった経験がある方からでないとなかなか聞けない(だろう)話が多く聞けて、楽しく聞けました。うちの人文社会科学研究科には、出版の道に進む学生も一定数いるので、そういう点で刺激を受けた者もいたのではないでしょうか。
 以下、気になった点を少しだけメモ的に書いておきますが、あくまで僕のまとめであって、亀@渋研Xさんが話したことやその意図とは異なっている可能性があります。

ファクトチェック:専門家も間違える

 編集の大事な仕事の一つにファクトチェック(事実確認)というのがあるが、それがおろそかにされる場合もある。また、単なる事実確認だけでなく、論理の整合性なども見る作業である、とのことでした。
 実は、学術雑誌の査読でも、これに近いところがあるのではないかと。分野によって色々違いはあるかと思いますが、同じ「〜学」の研究ではあっても、その中では自分の専門からとても離れたテーマの論文を査読する場合も結構あるのではないかと思うので。

「わかりやすさ」「おもしろさ」の(過剰な)重視

 「わかりやすさ」「おもしろさ」が過渡の単純化・センセーショナリズムにつながり、情報の正確さを損ねる、ということは良くあることだと思うが、実感としては特に最近は「わかりやすさ」至上主義の方が危ない事態を引き起こしているように見える、という話が印象的でした。
 「わかりやすさ」にも、結論のわかりやすさとか論理のわかりやすさとか、色々ありそうだな、と思いつつ、「わかりやすさ」は、ニーズからだけではなく、発信する側の善意(あるいはそれに似た何か)から暴走することもありそうだな、なんてことも考えました。

懇親会で

 セミナー後の懇親会でも、実際の体験を例に色々興味深い話を聞くことができましたが、個人的には、特に「専門家でも間違える」ことについて、自然科学に加えて、言語研究での事例も挙げながら話ができたことや、メディアだけでなく大学などの機関が自らセンセーショナルな情報発信をしてしまうこともあるのではないか、という話、伝言ゲームによる致命的な情報の変質は、たった一回での伝達でも起こる可能性、また実際にそういう事例があるという話、などが印象に残っています。懇親会の方がむしろ議事録取るべきだったかも。

おわりに

 大変断片的な報告で申し訳ありません。実は言語研究以外のイベントの企画がほぼ初めてなので色々テンパってるというところもあります。
 今後は、もっと多くの方が参加しやすい会にできるよう努めていきます。

追記 (2010/12/26):今後の予定

 筑波大学には東京キャンパスがあるので、東京開催も考えています。

追記 (2010/12/26):補足

このセミナーはニセ科学がメインテーマなのか

 ニセ科学は一つの重要な事例・トピックだと思いますが、メインはあくまでも「専門家と素人間における情報伝達・コミュニケーション」です。

「対話」という言葉を用いていることについて

 Judgementさんからトラックバックをいただきましたので↓

上記エントリにあるいくつかのトピック全てに対して何か書くのは現時点では難しいのですが、「対話」という言葉を使っていることについては少しだけ書いておきます。
 まず、上の「なぜ私(たち)が企画したか:所属組織について」で簡単に触れているように、もともと「対話」が所属組織の大きなテーマの一つだったので、そこに(も)つながっていく企画である、という意味を込めて付けました。
 「対話」の学術的な定義については自信が無いのですが、僕はふだんは「ある程度の指向性(乱暴に言えば目的)があるコミュニケーション」ぐらいの意味で用いています。もしかしたら参加者は二人というイメージが強いかもしれませんが、三人以上もありえると思います。もちろん、「目的」は参加者で違っていたり、一部の参加者は持っていなかったりするかもしれません。また、「参加者が対等の立場であるべき」という主張を強く含むものでもありません*2。このセミナーでは「専門家と素人」というそもそも(ある意味では)非対称的な立場にある者同士のやりとりをテーマにしているわけですし。

「専門家」とは

 今回は話題にしませんでしたが、「専門家」について考えていく上では二つの軸が重要になると考えています。一つは「専門的知識や技術をどれだけ身に付けているか」、もう一つは「職業上、どれだけ(なんらかの)専門領域に関わっているか」です。大学教員などは「専門的知識・技術高い/職業も研究」という感じでしょうが、たとえば「専門的知識・技術高い/職業はその専門に関係無い」(いわゆる”玄人はだし”?)という人も多いと思います。この話題については今後考えていければと思っています。

*1:告知がもっと早ければ学内からももっと集まったのかも…

*2:弱くなら含むのか、と言う点については悩み中。