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歯切れが悪いのは仕様です。

コンテンポラリーバレエとパウル・クレー

ここさいきん縁あってバレエを見る機会があり、コンテンポラリーバレエを見ている時間が嫌いではないことに気付いた。

なにか分かるとかそういうことではない。だいたいバレエについてはほとんど素人だ。

確かに、テーマとの関連が感じられることもあるし、個々の身体の動かし方に目を奪われることもある。テレビだと前後に簡単な解説が付くようなこともあり、そういうのを聞いているのも楽しい。しかしおそらくただ見ているのが良いのだ。

思うに、特になににも考えを巡らせずに鑑賞できる時間というのが好きなのだと思う。

どうも身の周りのあらゆることについてついなにかを考えてしまうくせがあり、こういう時間を与えてくれるものは意外と少ない。

私にとってそういう位置付けにあるものの1つに、パウル・クレーの絵がある。

アイコンなどにはいわゆる天使シリーズのものを使ったりしている(していた)が、実は抽象性の高い(といって良いのだろうか)作品が好きである。というか、そういう作品の前に立って見ている時間が好きだ。

別に作品のテーマについて考えたり、解釈や解説を読んだり聞いたりするのが嫌いというわけではない。それはそれで楽しい。

このことに気付いたのは、コンテンポラリーバレエについてポジティブな評価を述べた際に理由を聞かれて答えに窮してしまったことがきっかけである。なんとなく良い時間だったという感じで答え方が難しい。

パウル・クレーの絵についても好きな理由を答えるのが難しい(というかその後の会話が続かない)のでふだんはあまり自分から話題に出すことはなかったりする。

なにも考えなくて良い時間を持てることは素敵なことだ。

BlueskyとTwitter雑感2

Blueskyでもハッシュタグやミュート機能などが正式に採用された。

Twitterっぽくなることについてwebでは賛否両論見かけたが、そういうのをいろいろ見ていて、自分はそれぞれのサービスで何ができるかということに(今のところは)それほど比重を置いていないんだなということを実感した。

では何に比重があるかというと、「その場に誰がいるか」ということだ。いまだにTwitterを完全には離れることができず何ならやっぱりいろいろ投稿してしまうのもTwitterでできたいろんな人とのつながり(やりとり自体はまったくなかったとしても)が魅力的だからだし、Blueskyが魅力的なのも、Twitterとはまた違った形で誰かとの接触があるからだ。

たとえばTwitterには合わずにアカウントを削除したりあるいはアカウントを作っていなかった人たちがBlueskyではアカウントを持ってくれたりするとおもしろくなるかなと思うのだけれど、Blueskyも人が増えてきてあまりポジティブな未来は予想できないので、ちょっとだけ期待するのにとどめておく。

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dlit.hatenadiary.com

また古典(教育)不要論の話

webで盛り上がる定番ネタの1つなのでまたかという感じではあるけれど前に盛り上がった、自分でも珍しく記事まで書いたときのものを探してみたらもう5年前だった。

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気になるのは古典教育にポジティブな人たちの一部が先人の残したもの(を読んだり継いだりすること)の重要性を主張する一方、これまでの古典教育に関する議論や文献についてあまり言及されていないように見えるところ。ただこれは今回がどうというよりはこれまでもだいたいそうだった。

さすがに前回はかなり盛り上がったこともあって少し様子が違ったという印象があったのだけれど、思ったよりあのときのことに言及している人も少ないのが意外だった。でもwebのネタとしては5年前はもう大昔か。

このときに関わっていた人たちは当時の記録とか関係書籍などを紹介していて少しほっとしたので今回Twitterでは特に言及していない。このときも少し触れたくらいだったし。

発端がどういう話だったのかということに関しては下記の指摘が重要かなと思う。まあ多くの人は話題になってるから自分が言いたいことを言う良い機会という感じなのかな。話題になるたびに粘り強く丁寧な情報発信をしている一部の人たちには感謝しています。

古典(教育)不要論に限らずweb上の定期的に取り上げられるトピックについては、専門知や詳しい人からの情報提供の重要性を強調するような人ですら次にネタになったときには前回までに得られた情報を参照することは少ない、というのがwebで20年近く細々とやってきての体感なのでそれほど驚きはない(自分だってその辺り手抜きをして恥をかいたこともあるのであまり偉そうなことは言えない)。

ただ所詮web上の刹那的なネタなんだなということが頭にはありつつも、資料とか文献の重要性を説くこととのミスマッチをこの話題についてはいつも感じてしまう。一方専門的に関わっている人たちほどいたずらにネタ的な盛り上がりばかり繰り返してもななどと考えているかもしれないと思い直したりもする。すごくポジティブに捉えれば、そもそも気にしてもらうのが難しいトピックというのもたくさんある中、いつもこれだけ話題になるのはまだありがたい方という見方もあるかな。