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歯切れが悪いのは仕様です。

理論って

少なくとも言語学では(特定の)理論と記述って結構対立しちゃったりすることも多い。
で、今日ふと思ったこと。

「理論」に対する比喩はいくつか耳にするんだけど、その中でも良く聞くのが、「理論ていうのは色眼鏡なんだよ」という言い回しだ。
僕は、この言い方は多少ミスリーディングなんじゃないかと思う。なぜかって、眼鏡は「はずすことができる」からだ。そこには「何も通さないで言語を見ることができる」という隠れた前提がこっそり入り込んでいる気がする。

これは、実は「理論ていうのは絶対に外せない眼鏡」とか、「言語というのは眼鏡をかけないと見えない」と言い添えても問題が残ると僕は考えている。なぜならそこには「我々は決して知りえないけれども」という不可知論的な形でやはり「眼鏡を外す」という論理的可能性を認めている気がするからだ。

これは、D. ディヴィドソンの”第三のドグマ”の議論に似ている。まあ、「知りえないものが知りえない生の状態で存在する」というのが、認知される対象なのか、認知する対象なのかという点で違いはあるけれども。

というわけで、僕は理論ていうのは「眼」そのものなんじゃないかと思う。それが無いと言語があるということすらわからない。

まあ、結局よく知られている結論になっちゃうわけだけど、「理論無しにはそもそも記述なんてできないのよ」ってことだ。もちろん、その「理論」の種類や捉え方によって色々問題があるわけだけれど。

ただ、なんとなく最近、自分の周りで「理論」も「記述」も簡単に捉えられているような気がしたので。
いちいち考えてたら実際には分析なんて進んでいかないけれど、「単語」や「文」だってすぐれて(おそろしく)理論的な概念だということを忘れないでおきたいと自戒することも最近多い。