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歯切れが悪いのは仕様です。

研究、理論、自由

 今日、理論ってふとゲームに似てるな、と思った。
 ルールを覚えれば誰でも参加できるんだけど、上手くできる人とできない人がいる。
 例えば将棋を考えてみる。初めて打つ指す小学生でもプロ棋士でも各駒の動かし方は必ず同じ。「名人だからもう一こま進めても良い」なんてことは絶対に無い。でももちろんそのルールの中で素人とプロ棋士では全然異なった結果を出す。
 学問(少なくとも言語学)における理論もそんな性格を持っている、と思う。僕の環境だと理論を扱う人はむしろなんか特別な技術を持ってる人、ととられることもあるけど、ある面では分析における特権性を可能な限り薄めて、学べば誰でも使用できるようにした道具が理論なんだ、というかそうあるべきだろう。もちろん、その道具を上手く使えるかどうかは人によってかなり違う。
 僕の周りの環境では理論に関するテクニカルな議論は敬遠(時には軽視)されがちな傾向にあると思う。でもそれは技術的な側面がどうでも良い、ということになっては決していけないと思う。理論というのは厳密である(ように最大限努力する)ところに利点の一つがあるのだから。むしろ、技術的な議論が深く追求されない時、それはカバー、あるいは克服できることが前提になっていると捉えるべきだろう。しかし最近色々なところでテクニカルな点で乱暴な議論を見かける。
 これで良いのかしら。