ちょっと意外な展開にびっくりした話(どうでもいいですけどこの記事、はてブの「書くかも」カテゴリからエントリになった最初の例です。おおー)↓
以下引用です。
先日、あるドイツ人女性とお話しをした。彼女はフェミニズム論者である。さて、この会話から一つだけ関心を引いたテーマがあった。それはフェミニズム的観点から見た、ドイツ語改良運動であった。ご存知の通り、ドイツ語の冠詞類には、男性、女性、中性、複数の区別があるが、彼女曰く、「男女の区別なく人間一般を現わすものに、どうしてこうも男性名詞が多いのか、これを改良していかねばならぬ」ということである。
なるほどーこれは絶対思いつく人はいるよな、と思いました。まあ先の展開は大体読めるなーと思いつつ読み進めると、
例えばMensch(人間)。これは男性名詞なので、冠詞は男性名詞derを使うことになっている。従って、der Menschとなる。しかし、彼女によれば、人間には女性も含まれているから、従って、中性冠詞で次のようにあらわすのが好ましいということである ――das Mensch。
( ゚д゚)
(つд⊂)ゴシゴシ
(;゚д゚)
…いや、僕は何を予想していたかって、「名詞全てを性によって分類するのはおかしい。従って「男性、女性、中性」という呼び方(用語)を改めるべきだ!」とくるんだろうと思っていたのですよ*1。
そっちを変えちゃおうとするのかあ。
まあ例えば「1型、2型、3型」と呼び名を改めてしまうとわかりにくくなって教育に不便ということようなことまで考えているのか、とか、性差自体は否定しないという精神の表れなのか、とか色々考えたのですけれど、こういう文法的要素の使い方まで変えてしまおうとするエネルギーはすごいな、と思ったのでした。
こういう運動をする人を見ていると、サピア=ウォーフ仮説を気にする人が意外と多いというのもなんだか納得してしまいそうになりますけど、具体的にはどれぐらいまでを運動の範囲に入れようと考えているのかが少し気になりました。
例えば、普段の言葉遣いに気をつけろ、という話なのか、公共施設の表示やパンフレットの表記を変えろ、という話なのか、たとえ古典の名作文芸であっても新しく刷る版からは全て表現を差し替えろ、というところまで行ってしまうのか。
こういうのもなんというか一種の言葉狩りの問題なんですかね?僕としては道具を刈るより「どこで使うか」「どう使うか」をしっかり教えた方が良いんじゃないか、とか思うのですけれど、素朴過ぎ?もちろん言葉、場合、背景となる文化によって色々考えなければならない事情はあるのでしょうけど。言葉から受ける印象とか感情は親告的な面が大きいので、対話とか難しそうだなあ、という気もします。
まあ、言語学としてはこういうものも含めて言語のダイナミクスなので、淡々と記述するしかないのですけどね*2。むしろ研究のテーマになるでしょうねえ→「ドイツにおけるフェミニズム運動と名詞の「性」範疇の通時的変化の関係について」とか。むしろ言語変化における言語外的要因というのは中々確定することが難しいらしいので、こういうはっきりとした事例はケーススタディとして貴重なのかもしれません*3。
数十年後にどうなっているのか、ちょっと覚えておこう。