誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

「そんなつもりじゃなかった」ら議論や批判は免れられる(べき)か

 以下のエントリを読んでいたらニセ科学批判活動についても他人事ではない様な気がしてきたのでちょっと考察してみます。

 考察の前にちょっと前置き。上記エントリと同ブログ内での関連エントリ、他ブログでの言及エントリやはてブコメントを読んでみるとどうも話題の中心はいわゆる「はてブのネガコメ(を付けるブックマーカー)」のようなのですが、このエントリでは特にははてブに特化した考察は出てきません。あと、相変わらずだらだら長いです。

考えてみたい主張

 何回か読んでみたのですが、どの一文が結論というか核の主張なのか僕には選び出すことができませんでした。とりあえず、気になったのは次のような表現。

  • こういうふうに「議論を広げるため」とか「そのほうが面白くなるから」という理由で、「自分が実際にそう思っていないこと」をブックマークコメントに書くのは、「お門違い」というか、基本的に「失礼」なのではないかという気がします。他人を弄んでいるだけにしか思えませんし。
  • 実は、はてなを息苦しくしているのは、こういう「ネットの中では、常にみんなが『議論』を望んでいるのだと疑わない人たち」の存在も大きいのではないでしょうか。彼らが言っていることは、「正しい」ように思えるけれども、大事な視点が抜け落ちています。それは、「あなたが議論を吹っかけているエントリを書いているのも一人の『人間』であり、傷ついたり腹を立てたりする」ということ、そして、「すべての人間が、議論をしたくてブログをやっているわけではない」ということ。

2008-03-06

 このような表現から察するに、

  • 議論をするつもりが無いと思われる*1ネット上の発言に対しては議論を吹っかけるべきではない。

というのが主張の一つなのかな、と僕は読み取りました。この「議論(を吹っかける)」というのも具体的な行動としてはどういうことなのかもはっきり掴めないのですが、批判、事実(間違い)の指摘、問題提起、などが含まれているのかな、と考えています。もしこの理解が間違っていたらこの先は「お前も藁人形叩きじゃん」と笑いながら読んでください。

ニセ科学批判との関わり

 なんでそこでいきなりニセ科学批判の話になるんだよ、と思われそうですが、上の主張を認めるとすると、現在ネット上で行われるニセ科学批判に関する活動の一部ができなくなっちゃうんじゃないかな、と思うんですよね。
 なぜかというと、ニセ科学批判の活動の一つに「ニセ科学に関する間違った情報を広めてしまうような行動を指摘、批判する」というものがあります。その対象となるようなものには例えば、水伝で言えば江本氏の本の内容を「こんな良い話があります」としてブログで紹介するとか、最近一部でホットな話題でいくと千島学説の信奉者が癌の患者やその家族に現代医学による治療の放棄を勧めたり、そういう内容をサイトやブログで宣伝する、といったようなことがあります。
 そういった(ブログなどで)発信されたものを読んでみると、おそらくその書き手の目的は単なる「良いモノの紹介」なんだろうな、ということが結構あるんですよね*2。そういう場合、自分の発言が何か批判されたり、議論のテーマになるとは思ってないんだろうなあ、とも感じます*3
 ニセ科学を批判する人たちは時々そういったものに対して、(書き手にとってはいきなり)それが問題であることをコメント欄で指摘したり、批判エントリを書いてトラバを送ったり、ブクマして「ニセ科学」なんていうタグを付けたりするわけです。そしてそこから議論に発展することもあります。まさに青天の霹靂、と感じることもあるでしょうね。「そんなつもりじゃなかった」と。
 さて、このようなニセ科学批判の活動も、上で紹介した主張に則して考えると、「失礼」だったり「すべきではない」というようなことになってしまわないでしょうか。以前から時折ニセ科学批判をする人に対して、「偉そう」とか「謙虚さが足りない」というような指摘があったりしますが、もしかしたらこういう考え方とつながっていたりするのかな、というようなことも考えたりしました。

「そんなつもりじゃなかった」ことによる免責

 で、これってニセ科学批判だけではなくて、他のテーマについても同様に起こり得る問題だと思います。なぜかというと、自分がふと気軽に発信、発言したことが他の人にとってはものすごく重要な問題だったり、知らず知らずのうちに他人に迷惑をかけ(ることに加担して)たり、といったようなことはそんなに珍しくないと思うからです。情報や熱意の不均衡があるから起こる問題、というか。
 そういう場合に、例えば「議論なんてたいそうなことは考えてなかった」ことによって、議論の対象にされたり、批判されたりすることは免れられる、ということが一般的に言えるのでしょうか。僕はやっぱりそんなことは無いだろう、と考えています。まず、不特定多数に向けて何らかの発言をするわけですからそれに対して何の責任も取らないというのはどうかなあ、と思います。また、そんなこと認めちゃうと予めブログのトップに「堅苦しいお話お断り」とでも書いておけば、何でも気軽に放言しちゃっていい(そして批判なんかもされない)のか、なんて話まで出てきちゃいそうな気もします。
 そしてはてブコメントでも指摘がありましたが、「議論なんてするつもり無い(だろう)」ってことを承知で議論を仕掛けたり、批判したりしてる人も多いと思います。少なくとも僕が知っている、ニセ科学批判に携わってる方々はそういう人が多いと感じています。色々悩むこともあると思いますが、問題の大きさとか、影響力の大きさとか、色んなことを秤にかけて言及に至るんじゃないですかね*4
 では、「自分にとって重要な問題であればどんなことにでもどんな方法を使ってでも行動してよい」というような「熱意による免責」が大手を振ってまかり通るかというと、やっぱりそんなことも無いんじゃないかなあ、と。

結局あれこれなんとかやっていくしか

 「じゃあどうすりゃいいんだよ!」って声が聞こえてきそうですが、僕は今のところ、「結局何らかの形で(少しずつ)調整するしかない」と考えています。発端になった発言の内容とか、それぞれの行動のやり方とか、問題の大きさとか、色々な要因を当事者が考えることによって。加えて、観客というか、第三者の意見を参考にすることもできますよね*5
 もちろん関わった者全員が丁寧に筋の通ったやり取りを通して何らかの合意に至ったり、着地点を見つけることができれば幸せなんでしょうけど、なかなか難しいことだとも思います。当事者同士で「詳しく話し合うの面倒だからお互いの発言全削除で」なんてのも場合によってはアリかもしれませんし。
 これってネットだけでの話ではなくて、もし自分に少しでも「引けない」理由がある場合には*6、やっぱり「話し合う」ってのは重要な方法なんだと思います。最近、ネットでの議論関係でネット上で誰かと「理解しあおう」としても無駄な理由 - Vomit Cometなんてエントリが一部で話題になってましたが*7、まあ調整が目的であれば、「わかり合う」なんていう難しいゴールなんか必ずしも目指さなくても良いでしょうし、そのための「話し合い全て」が論理的なやり取りじゃなきゃいけない、なんて必然性も無いと思います。「ああ、私たちはどこまでいっても理解しあえそうにないですね(これ以上はやめましょうか)」なんてのも一つの理解、折り合いの付け方なんじゃないかなあ、なんて思ったり。もちろん、物別れに終わったり、片方が途中で離脱、なんてこともざらにありますよね。他にも当事者以外の方から話の整理などの援助や、妥協案の提言、などがある場合もありますよね。まあそれらが必ずしも良い効果をもたらすわけでは無いですし、煽りとか、余計やりとりを混乱させるような介入もあったりするので、大変なんですけど。
 でも結局、僕らはそういうことをやっていかざるを得ないんじゃないでしょうか。
 で、fujiponさんのエントリに少し話を戻すと、そもそも

ネット上にあるブログのエントリというのは、誰かの訓練に使われるために存在しているわけではない。
2008-03-06

とか、

「疲れた」「恋人と別れた」「ようやく子供ができた」というようなエントリで、誰が「議論の広がり」を望んでいるのか?
2008-03-06

なんてお書きになっているので、僕がここで述べてきたようなこととはずいぶん異なった事象についての問題意識からあのエントリを上げたんだろうなあ、ということはいくら僕でも察するところなのですが、やはりそこから「ネット上での議論の仕方はかくあるべし」などと持っていくのは一般化が強すぎる、というか早すぎると思うのです。
 もちろんこういうテーマについてある程度のルールやガイドラインはあった方が楽なので、そのための一つの提言だった、ということなのかもしれないですけどね。重要な論点だと色々な人が思っているからこそ、のブクマ数でもあるでしょうし。
 一つネットでの議論、という点で救いがあるとすれば、それはやはり「ログがある」ということではないでしょうか。もちろんこれからも新しいトピックが生まれ続けていくわけですが、もうすでに様々な話題について「〜について〜というような発言をしたら〜のような反応がある」という記録が、多くの先人の努力や、時には犠牲によって蓄積されてきて、また今現在も蓄積され続けているわけです。しかも学術的なトピックについて関連する論文を探したりするのより簡単に検索もできるわけですし、色々な問題について熱意のある人が情報をまとめてくれていたりもするわけですよね。
 何も画期的なアイディアが出せなくてここまでこんなにだらだらしたエントリを読んでくれた方々には申し訳無いのですが、結局、上で述べたような情報を参照しながら、色々傷ついたり消耗したりもしながら、話し合い、折り合いを付け、色々なレベル、領域でのルールについて提案や調整を続けていくしかないのかなあ、なんて思っています。なんか大変そうな上に報われなさそうな雰囲気すら感じられるかもしれませんが、疲れたらいくらでも休めますし、嫌になったら辞めるのも自由ですよね*8
 まあ僕は今まで窒息しそうなほどの息苦しさなんて感じたことが無い幸せなブロガーなんで、こんなこと書けちゃうのかもしれませんけどね。とりあえず、fujiponさんがもしこのエントリをお読みになったら「そんなつもりで書いたんじゃない」とは思うだろうなあ、という気はしています*9

*1:これも実際にやるとなると判断に迷う場合が結構出てきそうな気がしますが。

*2:これに関しては、ニセ科学問題にとって重要な「善意」の取り扱い、という大きなテーマがありますが、今回は割愛ということで。

*3:もちろん、判断に迷うような場合はあります。書き手自身に経験があって批判されたり議論を持ちかけられることを予測しているような場合もあるでしょうし。

*4:この点については、fujiponさんの指摘は「脊髄反射的にコメントを付ける前に相手のことを考える時間を設けようよ」という風にも取れるので、衝突しないのかもしれません。

*5:こういう点で僕ははてブコメントは参考になると考えています。まあ確かにノイズが多くて厄介な場合もあるのですが。

*6:それが「意地」のようなものであっても

*7:こういう、「言葉でのコミュニケーションなんて…」的な言説に関しては色々思うところもあるのですが、それは気が向いたら改めて。

*8:もしかしたらそういうわけにはいかない人もいるのかもしれませんけれども。

*9:このエントリも「空気読めよ」って感じだったりするのかな…