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歯切れが悪いのは仕様です。

打席に立とうとしない人々

比喩は苦手なのですけれど(いつも通り先に言い訳)。
まずLightさんのブログ「乗りかかった小船」の「最初から考えてみた」というエントリのコメント欄のnaokoさんのコメントの検討から。

「水に話しかけると、水がそれに応える」ということなら、
わたしはそれを一概に否定することはできない。
さらに現代の自然科学がそれを解析できるとも思わない。
だから、「それが科学的に証明された」という言説も、
逆に、「それはデマであることが科学的に証明された」という言説も、
成り立つとは思えない。
ただし、「それは今のところ科学的に証明されていない」という言説のみが、
わずかに成り立つ。
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「水に話しかけると、水がそれに応える」という主張に対して、「「それが科学的に証明された」という言説も、逆に、「それはデマであることが科学的に証明された」という言説も、成り立つとは思えない。」というのは正しい。なぜかというと「水に話しかけると、水がそれに応える」という主張自体が曖昧過ぎて(特に「応える」の内容が)検証そのものができないから。
 つまり、このままでは「(検証を始められないので)科学的に証明されえない」。というわけで「今のところ科学的に証明されてない」というのも当たり前。この「今のところ証明されていない」という事実認識自体は正しいのだけれど、この言い方がもし「今のところは証明されていないけれどいつか証明されるかも」という含意を持たせているのであれば、それはちょっとずるいレトリックだと思う。というか、その含意の部分は間違いになる。実際はどこまでいっても「(そのままでは)証明されえない」、というか「証明しようがない」。

 さて、naokoさんが実際にそこまで含意を持たせていたかどうかは別にして、この「いつかは証明されるかもしれないでしょ」という言い方は、疑似科学関連のやりとりではよく見かける。最近TAKESANさんの以下のエントリで「科学的」という言葉の使い方、という観点から話題になったけれども↓

そもそも何かの主張を検討する時にその内容をできるだけ明示するというのは自然科学に限らず学問における基本であって、主張や用語の定義が曖昧、というのは「(自然)科学的」にどうかという以前の問題だろう。時々こういう時に聞きかじりの哲学用語なんかを持ち出して(自然)科学では取り扱えないけれど哲学的には検討できるかのように発言しだす言い出す人もいるけれど、それは哲学を馬鹿にし過ぎだ。僕の知る限りでは哲学も(そしてそのほかの人文系の学問も)用語の定義や主張の内容、そして論理の厳密さに厳格な「学」だ。

 (唐突だけれど、ここから比喩スタート)
 この「いつかは証明されるかもしれないでしょ」は「もしかしたらいつかホームランが打てるかもしれないでしょ」という主張に似ているような、と最近考えた*1。ここで疑似科学側の支持者*2は、批判者の「科学的に証明できない」という類の批判を大体「下手だから絶対に打てるわけ無いって」というようなものだと誤解している(あるいはわざとそうとしか解釈しない)。だから「もしかしたら/いつかは」と言いたくなるのだろう。実際は「まずバットを持って打席に立ってください」というアドバイスなのだけれど*3。そこでやっとゲームが始まるのだ。でもほとんどの場合、彼らはいつまで経っても打席に立とうとはしない。とにかく打席に立ってバットを振ればヒットぐらい打てるかもしれないのにね(相手にもよるけど)。

 …うーむ、どうだろう。やっぱりこういうのは下手だなあ。評判悪かったらこの比喩の部分だけ取り下げるかな。

 上で紹介したnaokoさんのコメントに対しては、aoyamaさんという方が僕の水伝批判のエントリや朴斎先生、田崎先生の記事を紹介してくださった。aoyamaさんありがとうございます。でもまあいつも通りというかそれに対するリアクションは今のところ無い。ちなみにpoohさんの直接の突込みにもまだ返答は無い。またこのままスルーかな。

*1:時々頭に「素人でも」が付いたりする

*2:積極的消極的を問わず

*3:バットを持たずに打席に立つ人とか、打席の外でバットを振る人とか、色々いる。