誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

いくつかの疑似科学批判批判?についてのいくつかの違和感

※このエントリの内容は多少自意識過剰/過剰防衛気味であるかもしれませんが、どうにも最近もやもやっとさせられることが多いので、少し吐き出しておきます。同じようにもやもやっとしている方々の思考のきっかけにでもなれば幸いです。
※長いです。
※追記:以前反省したはずなのに、生かされてないorz正確には、タイトルは「疑似科学批判者への批判」、あるいは「疑似科学批判の方法についての批判」とするべきだったと思います。
 例えば、以下のページで展開されているような言説について

※黒影さんの最近のエントリ↓

については、ここで一緒に触れると問題がややこしくなる、というより別枠できちんと論じた方が良いと考えているので、このエントリでは触れません*1

とりあえず

 具体的にどの、少なくともどのような主張に対しての批判なのかを示してほしいといつも思います。ネットにはリンクという便利な機能もあることですし。

昨今の疑似科学批判ってなんか浅薄だなと思う。
なんというか - finalventの日記

エセ科学(に見える発言)を嫌い、論理的・科学的に実証できることをのみを基盤にして物事を語ろうとする学級委員たち
語も語る エセ科学?

などと言われても(言われてるかどうかすらわからないのですが)、どうにも反応のしようが無い、というかこれについてどう思考を始めようか、というところからして難しいです。
 こういう書き方だと「理系はムカツク」とか「男っていつも偉そう」っていうような単なる感想と同じレベルのものに思えるんですけど。もしかしてそれで良い、というかそれが目的なのかな?まあそうだとしても、「この人のこういう言い方ってムカツク/なんか偉そう」という風に一つでもいいので例示してもらえると、疑似科学問題に興味を持っている者の一人としては、自分の態度などへの参考にできるので助かるのですよね。わがまま過ぎなんですかねえ。
 論者の方としても、一つでも例を出すだけで、「少なくとも藁人形相手に戦ってるわけじゃないよ」ということが示せてお得だと思うのですけれど*2
 そういう事情があって、このエントリのタイトルの疑似科学批判批判にも「?」を付けています。そもそも「批判」として受け取っていいのかがいまいち判然としない、というか。

「トンデモ」と呼ぶこと

 一方、以下のような比較的具体的な指摘もあります。

それでも、自分はときどき、疑似科学批判を得意げにおこなう人たちに気持ち悪さを感じる。たとえば、疑似科学を信じている人たちを、「トンデモさん」と呼ぶ人がいる。こりゃ、あかんやろ。「トンデモさん」というとき、疑似科学批判者は、批判対象の全人格を否定してしまっている。
疑似科学を批判する人は謙虚であれ - plaisir.genxx.com

 ただ、これも個人的には「どういう論者/言説に対して「トンデモ」と言ったことがまずいのか」まで示されていないと、どうにも評価し難いのですよね。この方の主張は字義通りとって、とにかくどんな人に対しても「トンデモ」と呼ぶことはやめた方が良い、というもので良いのかな?
 「トンデモ」という言葉については、僕はnovtanさんの疑義に共感するところもあるので、ここで深く踏み込むことはしませんけど、はてブコメントなんかで叩かれているのは、大体「ただ信じている」だけではなくて、「何らかの形で正当化、あるいは広めようとしている」からだと思うのですよ。
 まあ「ネット」ということを考えると、ただ「信じています」と言うことでさえ、どう他の人に影響するか未知数なところがあるので、例えば「私は水伝を信じています」とただ一行書いただけで批判されることがあっても致し方ないこともあるかな、と個人的には考えています(とても影響力の強い、特に盲目的な支持者を多く持つようなブロガーさんの場合とかですね)。
 では、なぜ「正当化、広めようとする」と批判されても仕方ない(と僕が考えている)かについては次で述べます。

疑似科学批判者は皆傲慢か

 なぜ疑似科学が批判されるのかについては、例えば以下のページが参考になります。

 ここで論じられているのは「ニセ科学」を批判する動機についてなので、疑似科学批判全般には当てはまらないかもしれませんが、僕の立場は、「ウソはいけないから」というものに近いです。
 疑似科学と呼ばれるもの、あるいはそれに与する運動は、ほとんどの場合*3、意図的かどうかという点や、程度差はあるにしても、「人間の知的活動及び知の蓄積を不当に貶める」という要素を含んでいると考えています*4
 端的に述べると、疑似科学はその言説のどこかに、やはり「ウソを含んでいる」と言えるのではないでしょうか。そのウソを一個人として信じるところまでは、まあ個人の自由ですが、一旦それを「正当化」、あるいは「広める」という段階までくると、最早それがウソであると知っていたかどうかに関わらず批判されても仕方ないと思います。だって、それは単なるウソではなくて、「これまで多くの先人が、そして現在多くの科学に携わる人々が、多くの場合人生をかけてまで積み上げてきたものを踏みにじるようなウソ」だったりするのですよ。
 しかもなぜか疑似科学批判が無差別先制攻撃のように述べられることがありますが、どちらかというと「仕方なく防衛」、なことも多いということは意識されることはあるのでしょうか。疑似科学が専門領域内で主張されているだけなら、そもそも疑似科学批判なんて必要無いんですよ。どうしようもない言説は無視されて終わり、ですから。それが事情を良く知らない外部の人たちに対してウソを広めようとしたり、時には具体的に営業妨害になるようなケース*5まで出てくるから、仕方無く批判「しなければならない」という事情があったりします。
 というわけで、

「トンデモさん」と名づけ疑似科学信仰者を批判するとき、科学者は一線を踏み越えてしまっている。疑似科学を信じている人が、どのように生きようと自由なのだ。科学者が一線を踏み越えて相手を「嘲笑」するとき、疑似科学信仰者は、自分の生き様を全否定されたように感じて、ますます反発するだろう。
疑似科学を批判する人は謙虚であれ - plaisir.genxx.com

 などという意見には僕は違和感を覚えます。どちらかというと、疑似科学の方が科学の領域内に迷い込んできて、ウソを付き捲るので、「それはウソです」と応答しているだけ、という事例ばかりを僕は見ることが多いので。まあ、時々ウソや間違いを指摘されても科学や議論のルールを全無視で暴れまわる人もいるので、そういう人はもう「トンデモ=要注意人物」というラベルを貼られても自業自得かな、と思うのですけれど。
 疑似科学信仰者の人格や人生について配慮するのも良いですけれど、疑似科学(を主張すること)によって多くの先人や現在科学に携わっている人々の人生が否定されてしまうこともあるということについては考慮してもらえないのでしょうか。あ、もちろん「やられたからやり返しても良い」という正当化ではありませんよ。そこにも気付いて欲しい、というか。
 大体、ネットなんていう誰が聞いているかわからない空間で、大声で「これまで多くの先人が、そして現在多くの科学に携わる人々が、多くの場合人生をかけてまで積み上げてきたものを踏みにじるようなウソ」を主張して、踏みにじられた側の人から「それウソですから!」と指摘されたら、「あれ?なんかオレおかしいのかな?じゃ、ちょっと考えてみるわ…ヤベ早く消えよ」とか「うわー知らなかった!これからは人前でウソを言わなくて済むよ、ありがとう!」とか「なんか納得いかないなあ、もうちょっと詳しく教えてくれませんか?」という反応が普通であって、「お前オレのことウソつきって言ったな!しかも人前で!許せん!」っていうのはどう考えても見事な逆切れにしか思えないんですけど…というかそれ大人としてアリなの?僕の感覚がおかしいのかなあ。
 というわけで、個人的には

批判対象(疑似科学を信じている人たち)に対し、むしろ「あなたの生き様は認めますよ」という肯定的なメッセージを発する必要があるのではないか。
疑似科学を批判する人は謙虚であれ - plaisir.genxx.com

 という主張には賛同しかねます。これはもう疑似科学批判、あるいはニセ科学批判の議論でよく言われることなのですけれど、「疑似科学やオカルトにはまる(そして不幸になる)自由」は誰も批判も侵害もしようとはしていません。ただ、「他人を貶めるウソ」を付いたり、正当化したり、広めたりしようとする生き方についてはやっぱり肯定できないのです。しかもそのウソが自分の人生や生業に直接関わるものであればなおさらですよね。さらに疑似科学を主張する論者には部分的な肯定を全肯定に拡大解釈するプロも多いのでそれも怖かったりします。
 あ、あとこれも散々言われてきたことですけど、「疑似科学/ニセ科学批判はビリーバーのため(ビリーバーを説得するため)にあるのではなくて、事情を全く知らなかったり、境界で迷っている人のことを第一に考えて行われていることが多い」ということも付け加えておきます。

おわりに

 うーむ、やはり論点が定まらない論に言及するのはなんだか難しい。まあ僕の論者としての力不足が主な原因でしょうけど。僕が上でだらだら論じている点に関しては、

(※同じ内容の記事のようです。上がseesaaで下がはてな。)
と、そこで紹介されていて、ここで紹介していないリンク先のエントリもぜひ参考にしてください。僕の考え方や立場は結構偏っているかもしれないので。
 まあでも結局この点に関しては、TAKESANさんが

で述べていることが正しくて、どう考えても過渡に攻撃的な疑似科学批判者や、疑似科学批判をダシに人を罵りたいだけ、という人もいるかもしれないので疑似科学批判(者)全てを正当化することなどもちろんできないのですし、それを目的ともしていません。
 まあですから結局最初の提案に戻るんですけど、少なくとも何かを批判したい、「いや、だからヤバイ疑似科学批判者もいるって!」と主張したいのであれば、具体例を挙げて欲しいなあ、と思います。
 まだまだ述べたいことはあるのですけれど、今日は力尽きたのでこの辺りで。

おまけ

大多数の一般市民にとって、科学はとても難しい。なにが正しいのか、あれこれ詳細を吟味している能力も時間的余裕もない(毎日仕事がある)。たとえば、ダーウィンの進化論を本気で理解しようとしたら、とても骨が折れる。だから、「フツウの人」は、いずれにしろ「信じる」しかないのだ。専門家が正しいと言う科学(たとえば進化論)を信じるか、身近な人格者が正しいという疑似科学(たとえば創造説)を信じるか。彼はいずれにせよ「信じる」しかない。だからこそ、「信じて」もらうためにも、よりいっそう謙虚であることが求められるのではないかと強く思うのだ。
疑似科学を批判する人は謙虚であれ - plaisir.genxx.com

 これ、「まああの信頼性の高いと言われている専門家が言っているのだから、一応Aが正しそうとしておくか。でもまあよくわからないから保留」というような態度ではダメなんでしょうか?とりあえず何か信じなければならないの?
 というより何より、疑似科学批判、ニセ科学批判を行っている人たちからすれば、「何も考えずに信じます」という態度自体が疑似科学/ニセ科学と同じぐらい批判されると思いますし、「それぐらいなら全部判断保留にしてくれた方がまだまし」とか言われそうですけど。

*1:エネルギーとモチベが補充できたら書くかも、です…

*2:「おいおい、一つの例から勝手に一般化するんじゃないよ」というような批判を受ける可能性はまた別です。

*3:全てと言い切っていいのか自信がありません

*4:実際は、この特徴は疑似科学の枠を越えて、「疑似学問」とでも呼べるようなもの全てに当てはまると考えていますが、これについてはまたいつか。

*5:これはapj氏が明確に打ち出している立場でもありますね。