誰がログ

歯切れが悪いのは仕様です。

今さら書評:鈴木孝夫・田中克彦(2008)『対論 言語学が輝いていた時代』

 2008年にいただいて以来、書評を書く書く言って放っておいていたのですけれど、なんだか気持ち悪いので、決別するために(ごくごく雑にですが)書いておくことにします。三、四回ほど読み通しましたが、もう一度読む気はありません。
 最初に書いておきますが、僕はこの本の多くの記述(特にチョムスキー(生成文法)に関するところ)に対してとてもネガティブな印象を持っているので、その他の部分に対してもそのバイアスがあるかもしれません。

まず、著者たちは今の言語学は輝いていない(と考えている)のか

 「言語学が輝いていた」は「今の言語学が輝いていない」を含意(entailment)はしないと思いますので(キャンセル可能ですよね?)、このフレーズだけでは判断できないのですが、

田中「戦後は日本の学問史全体のなかでも、言語学が非常に注目されていた時代だと思うのです。学界のみならず、隣接諸科学からにわかに注目を浴びた。そういう時代を担った方々、われわれの先生にあたる方々が、それぞれ記憶に残る業績を残した。少なくともいまよりははるかに言語学が輝いていて、それを担った先生たちがいたことは事実だと思うのです。」
p.2

とあるので、「今の言語学は(昔に比べると)輝いていない」と考えているのではないかと推察します。

読んでいて面白かったところ

 「第一章 回想の言語学者」をはじめとして、服部四郎など、大物言語学者・研究者に関する具体的なエピソードが色々読めるのは楽しいです。

読んでいて勉強(教訓)になったところ

 上に書いたような言語学者のエピソードや、鈴木孝夫氏の学生時代のエピソードを読んでいると、ものすごい勉強量に頭が下がります。「お前みたいな不勉強者が言語学者を名乗るなど百年早い」と言われても返す言葉もありません。

僕には評価が難しいところ

 「第二章 言語と文化」で生物学、進化論に色々言及しているのですが、なんとなく怪しい感じ(単なる印象)。
 言語政策についての具体的な話、特に漢字やローマ字表記、外国語(英語)教育などについての話は(入り口として)参考になるのでは、と感じましたが、社会言語学をやっている人から見ると色々問題があるのかもしれません。

チョムスキー(生成文法)について

 誤解、あるいはミスリーディングな記述だらけです。たとえば、チョムスキーが「言語能力は生得的である」と考えているという話が出てきて、字面だけ見ると理解が間違ってはいないようにも見えるのですが、そこから

田中「だからチョムスキーの考えではことばは進化しない。ことばと進化という概念とは矛盾する。つまり、人間は神がつくったときから、ずっと永遠にホモ・サピエンスなんだからサルから進化したりしていない。…」
p.83

とロジックが進んでしまったりするのですからわけがわかりません。

鈴木「私はその点でチョムスキーはあまり読んでいないけれども、…」
p.84

という鈴木氏と、かつて

が生成文法に対する多くの誤解を含んでいると批判された田中氏のやりとりなので、予測される事態ではあるような気もしますが、実際に読んでみても、「これはまあOKかなあ」と思えるような記述には出会えませんでした。
 生成文法に何かしら文句を付けたい方も、この本は論拠として出さない方が安全です。
 ところで今回読み返していて気付いたのですが、「生成文法」という言葉はおそらく一回も出てこないのではないでしょうか。ずっと「チョムスキー(の言語学)」なのですね。生成文法は多くの研究者がある程度の前提や理論を共有して研究しているところにその特徴があると思うのですが、「チョムスキー信者(p.227)」といった表現は出てくるものの、チョムスキー自身の言語観/思想、といったところにフォーカスが当てられているように思います。

意味論について

 さて、実は僕が生成文法の取り扱いより気になったのが、「意味論」の取り上げ方です。
 田中氏がアメリカに行った時に意味論の勉強/研究をしたかったけどできなかった、というようなエピソードが出てきたりして、まあそういう時代だった、ということもあるのですが、その他取り上げられている意味論(意味の研究)は何人かの言語学者とドイツ意味論ぐらいです(第四章 ≪エネルゲイア≫としての言語)。
 このような書き方は、言語学になじみのない読者には大変不親切だと思うのです。確かに、言語学において意味論が比較的不遇の憂き目に会っていた時代もあったようですが、アメリカ構造言語学、生成文法(初期)の時代より意味論・意味研究は大きな発展を遂げました。
 特に形式意味論・認知言語学の発展を見れば、「現代言語学では意味論・意味研究は手薄」などとはとても言えないでしょう。生成文法だけを見ても、概念意味論・語彙意味論の発達は意味研究という活動、あるいは意味論の理論・モデルを大きく進展させた(させている)と言って良いでしょう*1
 この点に触れていないのは、大変アンフェアであると感じました。意味論が貧弱であるという点に「現在の言語学が輝いていない」理由(の一つ)を見るのであれば、ぜひ現在の言語学の意味論・意味研究の水準についても言及してほしかったものです。

おわりに

 というわけで、私の感想は「昔の話は面白いけれど、現在の言語研究に対する見方は控えめに言っても偏りすぎ」というものです。特に言語学に詳しくない方が言語学についての知識を得る、という点ではおすすめできません。言語学にある程度詳しい方にも頭痛・動悸などの症状が予測されますのでおすすめしません*2
 他にも「なんじゃそりゃあああぁぁぁ」という表現は色々ありましたが、もう疲れたのでこの辺りで終わりにします。
 この本(だけ)を読んで「言語学クソだな」などと思う方があまり出ませんように。

*1:そもそも、初期生成文法でも意味論の構築はその主目的ではなかったとはいえ、意味をどう扱うかと言うことは問題として取り上げられていましたし、意味研究に重要な現象がどんどん発見・記述されていった時代だと思います。

*2:特に生成文法に詳しい方